▷ 稲田豊史 『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ)
著者が「あとがき」にも書いているとおり、本書のタイトルは、『本を読めない人たち』でもなければ『本を読まない人』でもない。
『本を読めなくなった人たち』である。
つまり、以前は多少なりとも本を読んでいたのに、ある時期から本を読めなくなってしまった人たちがいて、著者はそうした人たちに注目しているのだ。「なぜ、読めなくなってしまったのか?」と。
『 本書の書名は「本を読めなくなった人たち」である。『本を読めない人たち』や『本を読まない人たち』ではない。本人の意志や能力の欠如によって不読なのではなく、身を置いている社会の変化一一非読社会化一一によって「読めない体」になってしまった側面もあるのではないか、というニュアンスを込めた。』(P279)
この「あとがき」を読むまで、私はすっかり、本書は「本を読まない人たち」をテーマとした著作だと思い込んでいた。だがまた、そう思ったまま読んでも、何の支障もなかった。
何故なのかと考えてみると、私にとっては、最初から「本を読まない人」も、「読まなくなった人」も、「本を読まないで済んでいる人」たちであるという意味では、大差のない存在だったからであろう。
私自身の場合は、よほどの事がないかぎり、読書を止めてしまうなどという事態は考えにくい。
大病を患い、その苦しみで読書どころではないとか、何らかの事情で生活費にも事欠くようになったとかいうことなら、嫌でも本を読んでいる余裕など無くなるといったことにもなり得るだろう。
だがそれでも、意識でも無くならないかぎり、完全に読まなくなることもまたないと、そんなふうに思っている。
例えば私は、40数年前に警察官に採用されて、1年間の「警察学校」での生活を送ったのだが、その間にも20 冊以上は読んだはずだ。
その前後は、年間170冊前後読んでいたはずだから、その年だけ極端に減っているのは事実だが、それは読書に用する時間が物理的に限られていたからでしかなく、むしろ当時の警察学校の1年間で、教科書以外の普通の本を、それだけ読んだ者は1000人に1人もいなかったはずだと、そう自負している。
なにしろ警察学校と言えば、分刻みで生活が管理される、自由の制限された場所なのだ。
長岡弘樹のミステリ小説『教場』が木村拓哉の主演でドラマ化され、警察学校という生活空間の特異さが少しは知られるようになったと思うのだが、40年前の警察学校は、あれに輪をかけて自由が無かった。

例えば、当時は男女共学ではなく完全に別クラスで、校内の利用空間も分けられ、意識的にその動線が交わらないように設計されていた。だから、男子生徒(初任科生)が同じ初任科の女性警官(当時は婦人警官)に視線をやることすら許されなかった。だから、声なんかかけた日には、下心などなくても大ごとになったのである。
だが、そんながんじがらめで、自分の時間を持てない場所であっても、私は「蛍」をしてまで、読書した。
「蛍」とは、就寝時間後、布団の中に懐中電灯を持ち込んで、布団の中でこっそり本を読むことだ。布団から微かに光の漏れるその様子が蛍に似ていたから、そう呼ばれたのである。
定期試験前にはそうして勉強をする者も少なからずいたのだが、一般書をそこまでして読むような者は、まあいなかったはずだ。それくらいなら、さっさと寝てしまったからである。
そんなわけで、私自身の場合は「本を完全に読まなくなる」というのは考えにくいことだし、事実、本を読み始めた高校生の頃から、還暦を過ぎた現在まで、常に本を読んできた。
警察の上司先輩から「それだけ本を読むのなら、ちょっと仕事の本を読めば昇任できるのに」と、よく忠告されたものだが、そういう「趣味でないこと」は一切せず、ひたすら好きな本だけを読んできたのだ。
読みたい本は、それからそれへと連鎖的に広がるし、そのため1冊読む間に3〜5冊あるいはそれ以上の本を買っていたから、未読本は山を成して溜まるばかり。だから、読まないという選択肢は無かった。
また、そのため、基本的に連続もののTVドラマやアニメは見ない、一巻完結の漫画しか読まない、ゲームには手を出さない、などの縛りをみずからに課した。
アニメも好きだったし、プラモ作りもしたかった。当然、ゲームにも興味はあったが、そんなことをしていたら本が読めなくなるのは目に見えていた。だから、一番の趣味である読書を優先するために、他を意識的に切ったのだ。
読書を優先した理由は、もちろん未読本が山と溜まっていたということもあるけれども、しかし、他の娯楽とは違って、たとえ娯楽小説ではあっても、読書ならば何らかのかたちで「身につく」という感覚があったからでもある。
よく言われるように、受動的あるいは視覚的な受容は、受け取りやすいかわりに身にもつかないという、そんな実感はあったからである。
だから、どうせ時間を割くのなら身につくものの方が得だし、その時は楽しくても、後には「空っぽな自分」が残るというのも嫌だと、そう考えたのだ。
だから、そんな私にとっては、途中で読書という趣味を捨ててしまえる人の読書とは、所詮、最初から「その程度のもの」だったのだろうとしか思えなかった。
単なる娯楽としての読者なら、他の娯楽に取って代わられるのも当然だし、ビジネス書や自己啓発書などの半ば必要に駆られての読書なら、必要がなくなれば辞めてしまえもするだろう。
だが、そうした読書と私の読書とでは、本質的なところで別物なので、「本を読まなくなった人」一一そうなれるような人は、私の興味の対象外でしかなかったのだ。
私にとっては、「本を読まなくなった人」と、最初から「本を読まない人」とは、ほとんど大差のない、言うなれば、住む世界の違う存在だったのである。
無論、プロの著述家である本書著者にとっては、「本を読む人」が減るというのは死活問題なのだから、「本を読まなくなった人」こそが問題だったのだろう。
読んでいた人が「なぜ読まなくなったのか」その理由がわかれば、対策をこうじることだって可能かもしれないからだ。
だが、私にとっては、読む気のない人にまで本を読ませたいとは思わないし、読まさなければならない理由もない。
私にとっては、「本を読まない人」も「本を読まなくなった人」も、どちらも結果としては「本を読まない人」なのだし、いずれにしろ読書をするかしないかは趣味の違いでしかないのだから、そうした人たちには勝手にしてもらっていて良かったのである。
ただし、「本を読む人が減っている」という社会現象があるのであれば、それにはどういう背景があるのだろうかといった、あくまでも非実利的な(純粋に知的な)興味はあった。
それは、読書趣味の問題と言うよりも、社会の変化についての社会学的な興味であったと言えるだろう。
本書著者にとっては、読者人口の減少は死活問題でも、一介の読書家でしかない私には、それは読書という趣味と同様で、実利とは無縁な、知的興味の対象でしかなかったのである。
○ ○ ○

さて、まずは本書の章立てをご紹介しておこう。
第1章 ニュースを無料で読む人たち 一一無料ウェブメディアの行き詰まり
第2章 本を読まない人たち 一一〈わかりみ〉と〈おもしろみ〉
第3章 本と出会えない人たち 一一無料抜粋記事と電子書籍の限界
第4章 本屋に行かない人たち 一一聖域としての書店
第5章 紙の本に集う人たち 一一読者と消費者
第1章の「ニュースを無料で読む人たち」は、なぜ本が売れなくなったのかに関する考察部分で、要は、昔とは違いネット上には無料で読めるニュースをはじめとした、それなりに面白い無料テキストが膨大に存在するため、文章に対価を払うという感覚が無くなってきている、という話。
第2章の「本を読まない人たち」は、「〈わかりみ〉と〈おもしろみ〉」という副題からもわかるとおり、今どきは「わかるわかる」という感覚を重視して読む人が大半で、「そんなこと考えたこともなかったから面白い」といったような、知的興味や探究心的なもので読む読者は減ったのでは、という話。
これはネットにおける、読み手への書き手の迎合の強まりと、それに伴うサービス過剰などの影響があるだろうといった指摘だ。
第3章の「本と出会えない人たち」は、街中から書店が消える中で、本屋へ行っても、どこから手をつけたら良いのか(どのようにして読むべき本にたどり着けるのか)がわからないというような人が増えているという指摘。ネットによる情報過多と選択肢の増大に伴うオススメ文化(パーソナライゼーション)の発展により、主体的な探索姿勢が求められる書店という場所への適応が困難になっている、といった指摘。
第4章の「本屋に行かない人たち」 は、副題に「聖域としての書店」とあるように、書店が「読書趣味の一部エリート」のための(いささか鼻持ちならない、敷居の高い)空間となりつつある、という指摘。
特にここで、その典型的なものとして取り上げられるのは、独立系書店とシェア型書店という、本の売り手側の個性アピールと上から目線がいささか鼻につくタイプの、マニア向け書店である。
第5章の「紙の本に集う人たち」は、著者の出版業界についての未来展望として、やはり「紙の本」というのは、一部好事家のためのものになるだろうという、いささか悲観的でもあれば、現実直視的な見方が示される。
喩えて合うなら、「好ましいことではないが、地球温暖化は止められないだろう」という見方と似ていよう。
つまり、そうした理想的とは言い難い現実を認めた上で、紙の本とその読者の行方占っている。
以上、大雑把にいえば、本書はこのような内容の本である。
さて、こうした内容を、私個人の興味において評価するならば、第1章から第3章は現状報告であり、現状認識のための知識としては有り難かったものの、結論としては「やっぱりなあ」とか「まあ、そうだろうな」という感じで、意外な情報や指摘は少なく、いささか物足りなかった。
まただからこそ、そこで語られた現状に腹を立てることもなく、そこにある種の「残念な必然」が感じられただけだっだ。
したがって私が強く共感させられたのは、「意識の高い系的な読者家たちの現在」を扱った、第4章と第5章だった。
なぜなら、私はここで描かれるような「読書エリートぶったやつら」が、大嫌いだったからだ。
エリートが嫌いなのではない、エリートというほどのこともないのに、エリートぶった、エリートぶりたがる輩が、大嫌いなのである。
本物のエリートなら尊敬できるが、レベルの低い勘違い野郎たちには、嫌悪を禁じ得ない。だから、独立系書店とかシェア型書店という、スカした本屋も大嫌いなのだ。
率直に言えば、「その程度で、読書エリートづらするな。こっちが恥ずかしい」という、そんな私自身の「上から目線での評価」を隠すつもりもない。要は、彼(女)らを「読書のエリート」だなどとは、私は露ほども認めていないのだ。
そもそも、本屋や書店員だからといって、どこに優れた読書家だという保証がある、ということだ。
本を売ってもらう立場の編集者や作家なら、そりゃあ持ち上げもするだろう。だが、それだけの話ではないか。
結局のところ、この種の「読者エリート(気取り)」たちというのは、ご当人はきわめて凡庸なのに、読んでいる本やその作家の権威、あるいはそほ職業的な肩書に依拠して、まるでそれが自分自身の「優れた趣味(美質)」ででもあるかのように「勘違い」をしている馬鹿が多いのだ。
「どうです、私はなかなか良い趣味してるでしょ?」みたいな態度が見え透いていて、こちらが赤面ものなのである。
彼らには、およそ謙虚さという知性が欠けている。だから、慢心していなければやれないようなことを平気でやる。
その承認欲求を満たすために、同類に向けの馴れ合いを、当たり前のようにやってのけるのだ。
言うまでもないことだが、例えば、澁澤龍彦ファンは澁澤龍彦ではないし、太宰治ファンは太宰治ではない。
なのに、「読書エリート」気取りの連中は、心の中で本気で「この人と私は、本質的に似てる!」などと思っており、ぜんぜん違うところについては、都合よく盲目になれる人たちだというのが、見え透いてしまう。
つまり、基本的なところで彼らは知性を欠いているから、その浮かれた態度が、見ていて恥ずかしい。
「その程度のことで、私は理解者ですヅラをするな。馬鹿じゃねえか」と、そう吐き捨てたくなるのだ。
だいたい、こういう輩に限って、読書の守備範囲はごく狭く限られており、それでいて自分の読むジャンルこそが最高だなどと平気で思える、世間の狭い連中だ。
知らないもの(ジャンル)への、当たり前の怖れや謙遜を知らない、夜郎自大な馬鹿なのである。
そもそも、本物の読書家ならば、読んでいる本よりも、読みたくても時間がなくて読めない本の方こそが気になるはずだし、そこが盲点になるのを怖れもするはずだ。
ところが、「読書エリート」を気取るような輩は、その狭い視野の中にしかない自らの趣味を「どうだ、すごいだろ」とやるのだから、畏れを知らぬ馬鹿丸出しだと評するしかない。
私には、そうした「程度の低い専門バカ」に対する苛立ちが昔からあるから、そうした自覚のない輩を、ときどき血祭りにあげてきた。
例えば「純文学の専門家」づらをした、著名な元文芸編集者の高橋一清を、容赦なく徹底的にぶっ叩いた。
反論できるものならしてみろとやったのだ。
そんなわけで、私は独立系書店もシェア型書店も好きではない。
もちろん例外もあるが、その多くが小賢しい「自己顕示欲」の表現スペースにしかなっていないから、それを見せられるこっちが恥ずかしいのだ。
「私ってセンスいいでしょ」「オシャレでしょ」というのが見え見えなのである。
だからついこちらも「でも、あなたはあのあたりの本は読んでいないよね。あれもそれも。そんな偏った読書しかしていないのに、どうしてそんな狭い視野の中での判断でしかないものを、自慢げにひけらかすばかりか、人にオススメなどできるの? 私にはその(厚顔無恥な)神経が理解できない」と、嫌味のひとつも言ってやりたくなるのだ。
だから、本書でも指摘されているとおり、この種の自己満足的なやり方では、出版文化の低迷を押しとどめることなど、とうてい不可能だろう。
なぜなら、そんなところへ喜んで出かけていくのは、同じく浅薄な「知的エリート」気取りの、「読書オタク」に限られるからだ。
また、同じ意味で、文学フリマも好きではないし、紙の本を公刊したがる権威主義者も好きではない。
いずれにしろ、その陳腐な承認欲求の垂れ流しが、当人の意に反して見るからに馬鹿っぽいし、その押しつけがましさを見せつけられるこちらが恥ずかしい。
同類同士では、共感もし褒め合いっこもするのだろうが、そういうタコツボに安住できる非知性的なセンスが、たまらなく嫌なのだ。
だから、そうした意味で、本書に引用されている東浩紀の、次の言葉にはまったく同感だ。
『 批評家・哲学者の東浩紀はXへのポストで「本が好きなひとと、「本を読んでいる自分が好きなひと」は歴然と違う。後者に依存した出版社や本屋は滅びる。最近問題だと思うのは、市場が小さくなった結果、出版社や本屋自身がその区別がつかなくなり始めていることだ。本が好きなんてのは、かっこよくもないし、おしゃれなことでもないんだよ」とバッサリ切った。』(P222)
実際、昔の「本読み=読者家」は「本の虫」と呼ばれ、変わり者扱いにはされても、カッコいいなどと思われることは、絶えてなかった。
なにしろ、寸暇を惜しんで本を読むから人づき合いは悪いし、本を買うために食費も削れば、人づき合いする気もないから身だしなみや服装に金をかけることも金輪際なかった。
そのため、本馬鹿というのは見るからにダサいというのが通り相場であり、そんなイメージが強かったのである。
言い換えれば、今の「読書エリートぶった輩」などは、そこまではやらないし、やれない凡人なのだ。
先日「韓国の若者の間で、読書家を気取ることがファッション化して流行っている」という趣旨のネットニュースがあったが、それと五十歩百歩の話でしかない。
▶︎ 本はファッションアイテムに 韓国の若年層の間で「Text Hip」が流行(現代ビジネス)
実際、多少は読んでいるとしても、韓国の「見せ読書」と同様で、10冊中の3冊しか読んでなくても、残りの7冊も絶対に読みたいというのではなく、あとの7冊は「読んだフリ」で誤魔化すような、「エセ読者家」が少なくない。
「note」などの読書好き系アカウントでは、「何千冊読みました」とかいった幼稚極まりない自己紹介をよく見かけるのだが、書いてる記事の中身が、その自己紹介とぜんぜん釣り合っていない。
読む人が読めば、ハッタリなのがバレバレだということにも配慮できない知的レベルの、「自称読書家」が少なくない。
そもそも、「読者量自慢によるマウンティング」が恥ずかしいものだと理解するだけの知能が無い。
「そんだけ読んでいれば、よほど賢いんでしょうね」なんて、皮肉な視線を向けられる可能性にすら、想像が及ばない。
まあそれは、大学教授になってすら、読書冊数自慢、映画鑑賞数自慢、観劇数自慢をするような輩が、インフルエンサーになるような時代なのだから、若者が真似をするのもやむを得ないところだとは言え、日本の知的状況も韓国と同様、お寒いかぎりなのだ。
『 私は一年に百本くらい映画を映画館で見て、かつ百本くらい舞台も劇場で見ます。
その全部について簡単な批評を書いて自分のブログにアップしています。また、一年に二六〇冊くらい本を読みます。
おかしいですよね。いくらなんでも多すぎます。大学教員なので、昼は授業をしています。でも、私の仕事は単に出勤して授業時間に話すだけではありません。きちんと研究して、その成果を授業で学生に還元しなければなりません。そのために映画や舞台を見たり、本を読んだりするので、まあこういうのは仕事の一部としてやっています。』
(北村紗衣 『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフエミニスト批評入門』 P8)

そんなわけで私は、前掲のエッセイにおいて「本物の読書家ならば、すでに読んだ本をことよりも、まだ読んでいない本の方が気になるはずなのに、どうしてそちらについては、いっこうに語ろうとしないのか」と、そう指摘した。
つまり、私自身、自分が「本読み=読者家」であるという自負を、隠すつもりはない。
そのかわり、まだ読んでいないものは読んでいないと言うし、知らないことは知らないと言う。
そこを誤魔化したり隠したりはしない。その必要が、私には無いからである。
ところが、エセ読者家というのは、自慢とハッタリが目的だから、読んでいなくても読んだフリをしたがるし、知らないことも知ってるようなフリをする。
そんなものを、しばしば見せつけられるせいで、私は、そうした三流学者にもありがちな、見え透いた「三流性」や「ニセモノ性」が、不快でならず我慢ならないのだ。
「おまえらみたいな、表面を繕っているだけの志の低い三流が、一人前に読者家づらするな!」と、嫌悪を込めてそう罵倒したくなるのである。
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だが、そんな私でも、そうした「エセ読書家」とは真逆の、本を読みたくても経済的にそれができないという若者の存在には、と胸を突かれてしまった。
『 佐賀駅内にある佐賀之書店の店長・本間悠は2022年6月、Xで「本屋が富裕層向けになったら日本は終わると思う本当にまじで」とポスト。そのポストは4000以上リポストされ1・8万の「いいね」がついた。また、千葉の書店・本屋 lighthouse の店長は、それを引用する形で以下のようにポストした。
「これほしいと思ってたやつ!」と発したにもかかわらずなにも買わずにお店を出ていく若者が頻繁にいるので、この状況はかなり進行してると思う。数百円から数千円程度のものを気軽に買えないのは明らかに貧困なんだけど、それに「慣らされてる」私たちは気づけない。』(P217〜218)
そうだ。これまでに何度か書いていることだが、私自身は、これまでの人生で、カネに困ったことは一度もなかった。
金持ちの御曹司だったからではない。夫婦で小さな寿司屋をやっていた両親の長男なのだから、経済的には中流の下あたりだったのだろう。だが、たぶん時代に恵まれていたのだ。
私が生まれたのは、戦後の高度経済成長期の最中であり、学生時代から警察官になった頃まではバブル経済期だったと、おおむねそのように言えるだろう。
つまり、日本の経済が傾き始めた時にはすでに公務員になっていたから、不況の影響を受けることも、ほとんどなかったのだ。
それにそれなりの給料をもらってはいても、遣うのはもっぱら書籍代で、酒タバコやギャンブルや車などは無論ファッションその他にも、最低限しか遣わない読書オンリーのオタクだったから、カネに困ったことなどなかったのだ。
実のところ、勤めをしていた頃は、新刊、古本、初版本までのひと通りを、好き放題に買っていたから、それだけで毎月10万円ほどは楽に遣っていたのだが、それでもそれだけだから、特に困ることはなかった。
しかしまた、本にそれだけ遣うというのは、非常識だし贅沢だというくらいの自覚はあった。だから、人に聞かれれば「本代は毎月五万円くらいかな。ホントに病気ですよね」などと自嘲的に言って、誤魔化してもいた。
自分は恵まれすぎており、贅沢をしているという自覚があり、それが恥ずかしいと感じるところがあったのだ。
だから、私自身、初版本コレクターだったにもかかわらず、コレクション本の写真をネットに上げることなどしなかったし、それを平気でやっている人を見ると、気持ちはわかるものの、自制心が無いのだとしか思えず、内心で大いに馬鹿にしていた。
「所詮、初版本や稀覯本のコレクションなんて、カネさえあれば馬鹿にでも出来ることじゃないか。おまえが書いた本でもないというのに」と、そう思って嘲っていたのである。
だから私は、カネ余りのやりたい放題が時効となるに等しい定年後に、自身の恥ずかしい過去語りとして、やっとそのあたりのことも率直に書けるようになった。
またそれでも、ネットに写真をアップしたのは、本のコレクションではなく、モデラーの作った戦車模型のコレクション写真だけだった。それなら、自慢っぽさよりも、年甲斐もない子供っぽさにしか見えないだろうと考えたからである。
そんなわけで私は非常に恵まれて、読書趣味に生きてきた人間だ。
金持ちではないから、それ以外の無駄遣いは一切せず、そのうえ自覚的に結婚もしなかった。この趣味を捨ててまで、結婚をして子供を作りたいとは思わなかったのだ。
また、結婚しないと恥ずかしいなどという不合理なことは、昔から考えなかった。
結婚したり子供を持つというのは、他人の分まで責任を引き受けるということなのだから、そんな重大な賭けを、世間並みの見栄だけで、気安くやっていいものではないと、そう考えたのだ。
読書家として、「世間の常識」なるものを相対化する、その程度の知恵は持っていたのである。
そんなわけで、可能なかぎりのすべてを、読書という趣味に捧げてきた私としては、頭の悪い「エセ読書家=三流読書家」が、エリートづらするのには心底我慢できなかったが、それとは真逆に、経済的な理由で買いたい本も買えないような若者には、申し訳ない気になってしまう。「恵まれすぎていて申し訳ない」「好き勝手やってきて、悪いな」と、そんな気になるのである。
だから、私は本書著者が言うように、将来的には、書籍や読書なんて、一部の好事家の趣味になってしまってもかまわないと思っている。
「活字文化を絶やすな!」なんて、偉そうなことを言う気には、到底なれない。
読書もまた、好きな人が好きにすればいいだけで、その趣味を人に押しつける権利など誰にもない。
だが、自分たちの好きなこと(読書)が廃れると、自分たちの価値まで下落すると、そんな心配をしているのだろうとしか思えない輩、その自覚すら無いまま、文化エリートぶっているような輩には、とうてい共感することなどできない。
もちろん、読書をするのは素晴らしいことだ。優れた文化に接し、叡智と感性を育むのが悪いことであるはずがない。
だが、それよりも、欲しい本一冊、新刊で買うことも出来ないような若者のいる現実、経済的な貧困の現実の方が、はるかに重大な問題だというのは、論を待たないはずだ。
金持ちの家の庭の芝が枯れたのと、地球温暖化で全生命が脅かされるのとでは、どちらが重大なのかは論ずるまでもないというのと、似たような話である。
本を読むに越したことはないが、読書文化の延命ばかりに気を取られて、本さえ買えないような貧困といった社会問題を後回しにできるような輩、独立系書店やシェア型書店に行って、コーヒーを飲みながら本を眺め、そんな自分にうっとり出来るような輩は、滅んでしまえばいいとさえ感じてしまうのである。
「おまえら、デ・プレのオープンカフェで、コーヒーを飲みながら本を読んでいる、知識人か芸術家にでもなったつもりなのか?」と、そう言ってやりたくなる。
そう言われても、ピンと来ない者も少なくはないだろうがだ。
「あなた方は、いったい何のために本を読んでいるのか?」とまでは言わないが、「本を読んではいても、そこから何も読み取っていないのだな」と、そんな皮肉のひとつもぶつけないではいられない。
読書を愛する者として、読書が知性や人格の陶冶に、さっぱり役に立たない実例の数々など、見せつけられたくはないのである。
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なお、最後に付け加えておけば、本書著者と私との決定的な違いは、「手間をかけて書かれた文章には、相応の対価が支払われるべきである」という本書著者の考えに、私はあまり実感を持って共感することができない、という点である。
著者は、プロの書き手としてやってきた人であり、そのため、ネット時代におけるテキストメディアの無料化による、テキストの価値の下落を腹立たしく思う気持ちは、私にも理解できる。
しかしながら、私はもともと同人誌をやっていた人間なので、自分の文章を読んでもらうためには、持ち出しになるのも当然だという意識がある。
つまり同人誌を作り、それを読んで欲しい人に当てて、一冊一冊郵送するなどすれば、結構な出費になったのだ。
だから、ネット時代になって、無料で好きなだけ自分の文章を公開できるようになったのが、どれだけありがたかったことか。
また、だからこそ私は「note」においては最初から、有料記事は無論のこと、「投げ銭」すら受け取らない、完全無料のスタンスでやってきたのだ。
読んでもらえるだけで嬉しい。その気持ちに嘘偽りはないから、カネなどビタ一文いらなかったのである。
だがそのかわり、中身に妥協は一切ない。
好き勝手書くからこそ、そんなものをあえて読んでくれる(かも知れない)人には、感謝して対価を求めないどころか、頭を下げてまで無料提供する。
プロの作家が、関係筋に献本するのと似たようなことだと思う。
実際私は、文庫の解説文など、原稿料の発生する文章を、依頼を受けて何度か書いたが、そのたびに「原稿料はいらないけど、そのかわり好きに書かせてもらいます」とそう言ってきた。それが「善きアマチュアリズム」だと思っていたからある。カネには換えられないものがあると、そう考えてきたのだ。
だから、原稿料をもらえたからといって「わーい、これで私もプロの物書きだぞ」なんて、下らないことは考えなかったのだ。
「問題は文章の中身だろうが」と、そう思っていたのである。
だから私は、プロがプロであるというだけでは、敬意など払うつもりなど毛頭ないのである。
また、そんな私にすれば、好き勝手なことを書いて、しかもそれに対価をもらって読んでもらうなんていうのは、余程の天才でもないかぎり、いささか贅沢にすぎないか、という気持ちがある。
実際、作家が好き勝手書いた本がある程度売れたのは、戦後の一時代の現象でしかなく、決して普遍的な真理でも、当たり前の話でもないのだ。
敗戦で娯楽のなくなった時代だったからこそ、戦後の日本では円本ブームや全集ブームがあった。
また、その後の高度経済成長があったればこそ、贅沢な百科事典ブームなんてものまであったのではないのか。
実際、戦後の円本ブーム以前の小説家なんて、筆極道と言ったくらいで、有名にはなっても、さほど金儲けはできなかった。
それが当たり前であり、貧乏する覚悟がなければ、作家になどなれなかったし、ならなかったのだ。
ところが、それが戦後の経済成長の波に乗って、著作業者全般が、名実ともに「先生」となり、憧れの職業にもなった。
しかしまたそれが、今や、ひと昔前のようにはいかない、カネにはならない職業に戻ろうとしている。いや、すでにそうなっている。
またそうなると、いったんは「名声と稼ぎ」のワンセットが当たり前になった文筆家たち(あるいは、文筆家志望者たち)は、「名声」だけではなく、「稼ぎ」も捨てられないという保身に走って、読者に媚びるようになった。
「書きたいことを書く」のではなく、ただ「ウケを狙って書く」ようになったのだ。
本書に紹介されている編集者やライターたちと同様、「背に腹はかえられない」と、嫌々ながらも読者に媚を売り、好き勝手なことを書かなくなってしまった。「文士」の矜持など、無難に「自粛(放棄)」した上で、筆幇間になったのである。
「プロなんだから、当然じゃないか」などと言い訳しながら。
だが、だとすれば、そんなものはある程度までは廃れ、淘汰された方がいいのだ。
昔の作家のように、金は稼げなくても、書きたいことがあるという者だけが著述家になればいい。
それでも多くの人は、決して困りはしないのである。
(2026年4月9日)
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