ロバート・エガース監督 『ライトハウス』: 難解なのではなく、説明したくないだけなのだ。

▷ 映画評:ロバート・エガース監督『ライトハウス』(2019年/アメリカ映画)

いかにも「A24」が製作したホラー映画であり、スッキリと理解できるような作品ではない。

当然、別にスッキリ理解できる作品でなければならないということもないのだから、それだけならかまわないのだが、本作の問題点は、見終えても「スッキリしない」という点なのだ。
つまり、カタルシスを与えてくれない映画であり、一般的な意味では「まったく面白くない」のである。

だが、本作はカンヌ映画祭に出品されて、特に評論家筋からはきわめて高い評価を受けたためか、普通の映画ファンは別にして、「シネフィル」を気取るような映画マニアたちだと、本作を「面白くなかった」の評することは、しにくいようである。

もちろん、根拠を示し説得力をもって、その理由を説明できるのなら、堂々と本作を失敗作だと主張することもできるのだが、映画マニアというのは、映画が好きでたくさん見ているだけの人が大半なので、まあ、たいがいはそんな芸当など出来ない。
だから、「あんまりよくわからなかったけど、たぶん凄いんだろうな」なんて思いながら、無理をして本作を褒めることにもなりがちなのだ。

したがって、本作を誉めている映画マニアに多いその誉め方というのは「主演の二人の熱演が素晴らしかった」という、アレである。

だが、裏を返せば、「作品そのものはよくわからなかったが、とにかく主演の二人の力の入った演技は、じつに素晴らしかった」と、そう言うしかなかった、ということなのだ。

しかし、本作の主演の二人の演技が素晴らしかったというのは、ある意味では「当然」なのだ。

なぜなら、本作は、登場人物が基本的にはこの二人だけの、ある種の密室劇なんだから、演技のできる俳優を使わなければ、そもそも作品として、まともに成立しない作りのものだったからである。

例えば、密室劇映画として有名な『探偵<スルース>』も登場人物は基本二人だけだったが、その主演は、ローレンス・オリビエマイケル・ケインという名優二人で、じつに素晴らしい熱演を見せてくれた。

しかし、『探偵<スルース>』と本作『ライトハウス』との根本的なちがいは、前者が徹底して、鑑賞者を楽しませることに注力していたのに対して、本作は、作り手である監督が、あくまでも自分の作りたいものを作った上で、鑑賞者に「共感を求めている」という点である。
つまり、観客・鑑賞者に対する態度として、「能動と受動」という違いがある。

平たく言えば、『探偵<スルース>』の場合はエンタメ的なサービス精神が横溢していたのだが、『ライトハウス』には、それがない。悪い意味での「芸術」映画なのだ。

だが、「芸術作品なら、つまらなくても当然だ」というのは間違いだ。

いわゆる「芸術作品」には、「エンタメ」とはまた違った「面白さ」があり、それがあるからこそ価値があるのであって、「芸術的な面白さ」の無い芸術作品とは、単なる失敗作、失敗した芸術作品にすぎない。

ではなぜ、本作はカンヌにおいて、批評家筋から絶大な支持を受け得たのか?

それはたぶん、本作が「フランスの知識人」が大好きな「抽象的で、いささかマゾヒスティックな、エロティシズム」を湛えた作品だったからではないかと、私はそのように見ている。

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本作が、どのような作品で、どのような意図をもって作られたのかと言えば、それはすでに、映画ライターの「ISO」氏が、資料を駆使して紹介しておられるから、そちらを当たっていただくとよい。
なにしろ、脚本そのものまで参照しているのだから、「作り手の意図」に関しては、ほぼ間違いなく、正確に紹介なさっていると思う。

だが、あえて言うが、「ISO」氏のこの文章は、映画解説ではあっても、映画評論(批評)ではない。
無論、評論ではなく解説記事であってもかまわない。なぜなら、評論と解説では、そもそも「役割り」が違うからである。

つまり、「評論」は、読者に自分の頭で考えることを促し、「解説」は、読者に自分の頭で考えないでも済むようにするもの、なのである。

だから、「ISO」氏の文章が、典型的な「解説」文なのに対して、同じく映画ライターの「SYO」氏の文章は、明白に「評論」を意図したものだ。「(作り手の真意が奈辺にあるのか、その真相は別にして)私はこう読んだ」という文章である。

そして私としては、鑑賞した作品が「難解」だからといって、解説記事を読むことで安心しようとは思わない。
だが、「評論」なら読んでも良い。

では、読む側の態度として、両者の場合では、一体どこがどのように違っているのだろうか?

「解説」を読む人というのは、基本的に「正解」を求めており、その「正解」とはしばしば「作り手の意図」なのだ。作り手の意図を知ることこそが、作品を「正しく理解すること」だと、勘違いしていることが多い。

では、なぜそれが「勘違い」なのかと言えば、「知ること」は「理解すること」と同じではないからである。
例えば、知識の豊富な人が、必ずしも理解力のある人だとは限らないという事実に、それは明らかなはずだ。

ちなみに、このあたりについては、次のレビューで詳しく論じているので、よければ読んでほしい。

そんなわけで端的に言えば、「解説」を読んで「わかった」つもりになるというのは、錯覚にすぎない。

それは「作り手の意図」を「知った」だけであって、その「作品」が、実際にはどのようなものとして出来上がっているのか、ということを理解しているわけではない。

当たり前の話だが、いつでも作り手の意図どおりに作品が作れるのであれば誰も苦労はしないし、世の中に駄作や失敗作など存在しないことになってしまう。

言い換えれば、現実の作品=結果としての作品というのは、たいがいの場合、作り手の意図どおりには完成しておらず、その壮大であるとか立派な意図や狙いといったことには、結果として届かない(未達成な)作品になってしまう。

だがまた、ごく例外的に、作り手の意図どおりに完成したとか、作り手の意図を超えてしまったとか、作り手の意図とは別のところでとんでもない作品になってしまった、といったことが起こり、それらが正真正銘の「傑作」なのである。

そんなわけで、「解説」記事を読んでわかったつもりになり、安心できるような人は、基本的に、芸術とは無縁な人なのだ。
映画を何万本も見て、その知識をいくら蓄えていようと、それは「記録媒体(知恵袋)」としての価値ならあるかも知れないが、芸術鑑賞者ではないのである。

さて、では一方の「評論」を読む人とは、どういう人なのか。
それは「他人の意見(解釈)」に興味がある人であり、「自分の意見(解釈)」が、また別にあるというのを自明の前提とする人だ。

つまり、「正解」は一つではない。
当然「作り手の意図」もまた、そのまま作品理解としての「正解」などではなく、それとは別の「斯ありたい(ありたかった)という狙い(思い)」でしかないのである。
的を狙うことと、的に命中させることとは、当然のことながら、まったく別ものなのである。

無論、実際には「正解を求めて、評論を読む」などというお門違いなことをする人も多いと言うか、たぶんそっちの方が多いのだろう。「ISO」氏の解説記事に、多くの「スキ(いいね)」がついているのは、その証拠である。

だが、原理的な話としては、評論を読む人は、自分とは異なった「物の見方」に対して興味を持っている人なのだ。
言い換えれば、自分と「同じ意見」を求めて評論を読むなどというのは、(そこに何の発展性も無いのだから)時間の無駄も甚だしいのである。

したがって、私が興味を持ったのは、「ISO」氏の「解説」記事ではなく、「SYO」氏の評論文の方であった。
「SYO」氏は、自分なりの本作理解をそこに示していたから、私はその部分にこそ興味を持ったのだ。

では、「SYO」氏の評論文はどうであったかというと、一一間違ってはいないが、いささかツッコミの足りない文章であり、その点が物足りなかった。

発表媒体の問題として、十分な紙幅が与えられず、その限られた中で書かなければならなかったという制約は、確実にあったと思う。
そこには同情を禁じえないのだが、しかしそこはプロの仕事として、同情されるべきところではないだろう。だから忌憚なく言えば、上のような「評価」になってしまう。

いずれにしろ、「評論」もまた作品であれば、著者の意図どおりの評価など、そう簡単には受けられないのである。

だが『SYO』氏が、本作『ライトハウス』の芸術作品指向を指摘したのは、まったく正しい。
しかも、その芸術作品指向とは、まず「作り手が作りたいものを作る」ということであり、お客様大事のエンタメ的な作り方ではないという、作家の態度についての指摘である。

本作『ライトハウス』が、エガース監督の「趣味」に走った(偏した)作品だというのは間違いないし、だからこそ「わかりにくい」作品にもなった。
一般的な観客(鑑賞者)の理解を促すための努力が、ほとんどなされていないのである。

では、エガース監督は本作において「何をやりたかったのか」と言えば、それは監督デビュー作の前作『ウィッチ』でやったのと同様、マゾヒスティックな「性的オプセッション(強迫観念)」の表現だ。

つまり、エガース監督は、いささか「被害妄想的な世界に、かえって魅かれる」人なのだ。だから、私はそれを、マゾヒスティック(被虐嗜好的)と呼ぶのである。

で、この点については、すでに「ISO」氏も大筋では指摘しているのだが、しかし氏の指摘は、かなり中途半端なものに終わっている。

そして、たぶんその原因は、記事の字数制限の問題であるよりも、「有名監督のマゾヒズム傾向を、ストレートに指摘できなかった」という、プロのライターにありがちな「表現(本音)の自粛」だったのであろう。

だからこそ「SYO」氏は、この評論のタイトルを『作り手の“心根”がわからない怖さ』という、いささかぼかした表現で、自分の見てとったところを、暗示的に示唆しているのである。

つまり「SYO」氏も、エガース作品の根底にあるのは「暗いマゾヒズム」だというのは、大筋で気づいている。
だが、そうと剥きつけには書けない(今どきは、どこから苦情が来るかわからない)から、わからないフリをして『作り手の“心根”がわからない怖さ』という表現に止めたのであろう。

だがまただからこそ、私にとって、「SYO」氏のこの評論文には、隔靴掻痒の感が否めない。批評として中途半端だという印象を禁じ得ずない。
評価のポイントを適切に指摘しておきながら、その追求には腰がひけて不徹底な点が、いかにも物足りなかったのである。

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さて、例によってなのだが、本作の「ストーリー紹介」みたいなことはしない。
そのあたりを知りたい人は、Wikipediaを読むなり、「ISO」の解説記事を読むなりしてほしい。

だからここでは、物語のポイントとなる部分をざっとまとめた上で、本作がどういう内容の作品なのかということについて、身も蓋もなく紹介しよう。

本作は、4週間の期限付きで、人の住まない孤島の灯台での勤務ために、海を渡ってやってきた二人の灯台守、ウェイクとウィンズローの物語である。
年寄りでベテラン灯台守のウェイクウィレム・デフォー)と、まだ新人である若いウィンズローロバート・パティンソン)。この二人の、閉塞した孤島での葛藤相剋を描く、実質的な密室劇だ。

ウェイクは、灯台守という仕事と元「海の男」ということに、大変な自負を持っており、新米のウィンズローを見下し、彼をこき使うのを当然だと考えている、いかにも嫌な爺さんである。
一方のウィンズローは、金儲けのためだけに木樵から灯台守に転身したという変わり種で、とにかく金が欲しいだけ。しかし、灯台守としての、4週間の勤務終了後に支払われる給金は、上司であるウィンズローの評価にかかっているため、あれもやれこれもやれと、灯台の灯り(ライト)の管理以外の雑用を何もかもを彼に押しつけて威張り散らすウェイクに、当初は卑屈なまでに服従して、慣れない仕事に精励する。

ところが、嵐の襲来によって、期限の日が来ても、来るはずの交代要員が来ない。
ジリジリするウィンズローを尻目に、ベテランであるウェイクは、過去には同様の事態のせいで何ヶ月も灯台で勤務しなければならなくなったった者もいたと、そんな嫌な話をする。

交代要員とともに運ばれてくるはずだった食料も届かず、二人は埋めてあった備蓄用の食料を掘り起こすのだが、出てきたのは期待していた食料ではなく、酒であった。

そんなわけで、いつ来るとも知れない交代要因を待っての二人きりの孤島での勤務と、そのストレス解消のための過度の飲酒、さらに言えば、満たされない性欲などのあれこれによって、二人の情緒の浮き沈みは激しくなってゆき、おとなしくウェイクに従っていたウィンズローも、徐々に自制のタガが緩んできて、ウェイクとぶつかることが増え、二人の間で不穏な空気が高まっていく。

一一つまり、二人の精神状態はどんどん不安定になっていき、中でも、こうした生活に慣れない(本作の視点人物である)ウィンズローの方は、過度の飲酒などもあって、何が現実で何が幻覚かがわからない、意識の混濁した世界へと落ち込んでいくのである。

そんなわけで、本作で描かれる、クトゥルフを思わせるタコの脚のような謎の触手とか、ウィンズローを誘惑する美しくも凶暴な人魚とか、海神らしい謎の老人とかいった、神話的で超常的な存在というのは、すべて「幻覚」だと、そう断じてもよい。

現実と幻覚の境界が曖昧になっているのだから、逆にもしかしてこうした異形が、この作品世界では実在するのかもと、ちょっと期待したいところではあるのだが、普通に考えて、そういう作りの作品にはなっていないのだ。

だから本作に、真正面から超常的なものを描いた作品であることを、期待してはいけない。

私の場合は、「米誌が選出!ラブクラフト系コズミック・ホラー映画ベスト10」と題するネット記事を読んで、本作に興味を持ったのだが、残念ながら本作は「クトゥルフ映画」ではないのだ。

実際この記事も、「クトゥルフ系」としか表現しておらず、H・P・ラヴクラフトらによる「クトゥルフ神話」小説を原作とした映画だとは、言っていなかったのだ。

無論、クトゥルフであれ、それ以外の類似の怪物や異形であれ、それらは時に物理法則を超えた存在だったりするのだから、幻覚の一種として描かれていたとして、それはそれで「人の精神に幻覚として侵入してきたクトゥルフ(に類する存在)」だと考えてもよく、その意味で本作をクトゥルフ映画の一種だと考えることも、できないわけではない。

しかし、私が期待したのは、そういう言い訳がましくて回りくどいものではなく、ちゃんとクトゥルフの登場してくれる映画だったのだ。
一一だが、本作はそういう映画ではなかったのである。

では、どうして本作は「孤島での閉鎖状況が生む妄想幻覚」を描いて、例えばマーティン・スコセッシ監督の『シャッターアイランド』みたいな作品、現実と幻覚の境界を「論理的に」推理する楽しみのあるような作品、にならなかったのだろうか?

それは無論、本作『ライトハウス』のエガース監督が、そういう「理知的な明晰性」には興味がなく、むしろ「知的混乱の恐怖と快楽」を描きたかったからに違いない。

だから、エガース監督は、本作を「ちゃんと見さえすれば、どうなっているのかがわかる」作品として作ってはいない。

もちろん、「設定」的には、きちんと物語は組み立てられているようなのだが、それをそのまま描くのではなく、故意に多くを語り落とし、誤解を生むような見せ方をして、見る者をわざわざ混乱させるように作っている。

ではなぜ、そんな面倒くさいものを作るのかと言えば、それは、そういうのがエガース監督の好みだからなのだ。
言い換えれば、エガース監督は、すべてキッチリと理解してしまえる世界、理に落ちる世界、安心安全なだけの世界には、なんの魅力も感じないのだ。だから、そういう世界にしないように、本作を作っている。

喩えて言えば、優しく誠実で心清らかな女性よりも、不実な悪女にこそ惹かれる、といった心性に似たものを、エガース監督は持っている。
だからこそ、ウィンズローが幻視する人魚は、美しいだけではなく、凶暴で危険な存在だったのだ。

したがって、本作は、「普通の人」には理解しにくいもの抱えた作品として作られている。
言い換えれば、特殊な性壁のある人だけが、深く共感できる、ある意味で(芸術的作品に見せかけた)変態映画なのだ。

私はここで、なにも変態が悪いと言っているのではない。
「特殊な性癖」は、少しも悪くはなく、所詮は趣味嗜好の問題でしかないのだが、ただ一般の理解の得にくいものではあると、そう言っているだけなのだ。

前述の「ISO」氏が解説として紹介し、「SYO」氏も指摘しているとおり、本作には「性的な象徴表現」が多用されている。

その典型が「灯台=男根」だし、人魚というのもそうで、もともと魚というものは、聖なるものと同時に、性的なイメージと結びつきやすいものなのだ。

それ以外にも、性的な暗示の込めた描写はある。

あれこれ雑用を言いつけるウェイクに対し、ウィンズローが「俺はあんたの嫁さんがわりや召使として来たんじゃない」というセリフもあるし、ウェイクがウィンズローの顔を見て「おまえのように美しい顔をした男が、こんなところへ来るのは不自然だ(何か人に言えない事情があるんだろう)」といったようなことを言ったりもする。

セリフ全体としては、特に性的な意味合いのものではないのだが、「嫁さん」や「美しい顔」というワードには、明らかに性的な含意がある。

また、ウェイクが灯台の一番上のライトルームには、決してウィンズローを立ち入らせず、そこで裸になって「大切な(愛しい)ライト」に向かって「おまえは俺の妻だ」みたいな言葉を囁くシーンなどは、露骨に性的だ。

しかしまた、少し深読みをすれば、男根の象徴たる灯台の命であり、その核(亀頭)ともなるライトを妻だと呼ぶのなら、ウェイクの愛とは同性愛的なものだとも解釈し得るし、ウィンズローの「嫁さん扱いにするな」という苦情も、期せずして、ウェイクの本質をついていたのかも知れない。

そもそも、ウェイクはウィンズローに対してちっとも優しくはなく、いろいろ意地悪なことをするのだが、それは「古い男」の、いささか屈折した愛情表現だと、そう取れないこともない。
嫁さんをいじめるのが、愛情だと勘違いしているような男は、昔であれば、決して珍しくはなかったのである。

また、ウィンズローが、島から救命ボートで一人で逃げ出そうとした際、ウェイクがボートを破壊してでも、ウィンズローを引き留めたというのも、逃げた女房を必死で追いかける、情けない男の姿に酷似している。

さらに、ウェイクの前の(灯台守の)相方は、人魚の幻を見るようになり、精神に変調をきたして自殺したということになっており、ウィンズローはそれを、本当は「ウェイク」が殺したのではないかと恐れたから、一人で島から逃げようとしたのだが、一一しかし、そうした推測よりも、ウェイクの前の相方は、自分がウェイクの同性愛の対象とされたことから精神を病んで、「俺は女じゃない。女が好きな男(異性愛者)なんだ」という意識から、(ウィンズローと同様に)女の象徴である人魚(とのセックス)の幻覚を見るようになり、そのあげく「自殺した」と考える方が、むしろ自然なのではないだろうか?

ともあれ、エガース監督が、ラヴクラフトを好きな作家だと公言していることなどから、本作に描かれる異形をクトゥルフだとする(したい)解釈も当然のごとく出てくるわけなのだが、同監督にとって「魔物(魔女や怪物)」の類いというのは、例えば私のそれのような「怪物(怪獣)趣味」ではなく、「被虐幻想を満たすための道具」だと考える方が、むしろ適切なのではないだろうか。

つまり、純粋に、怪物異形が「見たい」わけではない(「アナコンダ最高!」というノリではない)。
そうしたモンスターを「カッコいい」などとは決して思わず、それが「恐怖を与えてくれる存在」だからこそ、エガース監督にとっては、それはありがたいモチーフとなっているのだ。
だからこそ、本作においても、怪物は現に登場する必要はなく、あくまでも「恐怖の象徴」として現れてくれさえすれば、それは幻覚であっても、いっこうにかまわないのである。

例えば、エガース監督のデビュー作『ウィッチ』にも、それは明らかであろう。

同作で描かれるのは「魔女」なのだが、魔女というのは、クトゥルフとは違い、外見的にグロテスクだというわけではない。時に、醜い老婆として描かれることはあっても、美女であることもよくあるし、いずれにしろ外見的には、単なる人間だ。
また、悪魔を象徴する「黒い山羊」だって、外見的には、ただの山羊なのである。

つまり、エガース監督にとっては、魔女であれ悪魔であれクトゥルフであれ、肝心なのは、その「外見」ではなく、それが「恐怖の象徴」であるという点なのだ。
それそのものが「魅力的」なのではなく、それが象徴する「恐怖」のイメージに、エガース監督は惹かれている。
だから私は、そうした構えをマゾヒスティックだと言うのである。

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そこで、これはまだ誰も指摘していないことだと思うのだが、エガース監督を理解する上で最も注目すべき、彼の「好きな小説家」とは、わかりやすくラブクラフトなどではなく、意外にも、本邦の小説家・江戸川乱歩なのではないだろうかと、そう指摘しておきたい。

私が見たDVDに付録しているミニパンフレットには、エガース監督へのオフィシャル・インタビューが掲載されている。

そのインタビューは、日本人インタビュアーによって行われた、日本人読者向けのインタビューらしく、エガース監督に「日本の映画作家で、影響を受けた人は誰か?」とか、「好きな日本人小説家はいるか?」といった、ベタな質問をしている。

その中でエガース監督は、最近は読んでいないがと断りながらも、二十代前半の頃に、江戸川乱歩をたくさん読んでおり、英訳版アンソロジー『江戸川乱歩短編集』は愛読書だ、と語っている。
日本人向けのリップサービスということもあろうが、それだけで江戸川乱歩の名が挙がることは、まずないはずだ。

普通、このインタビューで、日本人読者に注目される日本人芸術家とは、映画作家としてエガースに影響を与えたという黒澤明か、いかにもエガースらしい、暗黒舞踏土方巽の方であろう。

だが、私が江戸川乱歩に注目するのは、わかりやすく日本の巨匠である黒澤明は別にして、いかにもエガース監督らしくてわかりやすい、ラブクラフトや土方巽などといった「恐怖」系ではなく、乱歩の場合は、唯一「マゾ(被虐嗜好)」系の作家だからなのだ。

無論、乱歩も「恐怖」を描いた作家であり、なにしろ『恐怖王』というタイトルの作品すらあるのだけれど、しかし、乱歩好きには周知のとおり、乱歩の場合は、単なる「怖いもの好き(ホラー趣味)」なのではなく、要は「脅かされる私」というシチュエーションが好きなのだ。
そしてそれが、自己投影的な「少年愛」ともなって、少年探偵団シリーズが書かれることにもなる。
乱歩は、怪人に誘拐されて危機一髪に陥る、半ズボンの少年の方なのである。

つまり、そうしたシチュエーションを構成するための道具として、「恐怖王」をはじめとした「黄金仮面」人間豹」「蜘蛛男」などなどの怪人も生み出された。
だから、むしろ乱歩自身は、そうした怪人的なものを幼稚だと自己嫌悪していたのだが、そうした存在の生む出す被害者の方には、強く惹かれていたのであろう。
例えば、誘拐した「美しい母息子」を、氷漬けの裸像にして見せ物にしようとした怪人『吸血鬼』を、ここで思い出すべきであろう。

ことほど左様に、江戸川乱歩の本質とは、「恐怖」そのものではなく、それを道具として引き起こされる「被虐趣味的な状況」にあるというのは、前記のような「後期の通俗長編」ではなく、むしろそれ以前の、怪人の登場しない初期作品でこそ明らかで、その典型的なものが、「陰獣」であり「人間椅子」「芋虫」「パノラマ島奇談」といった作品群なのだ。
そこには、「怪物・怪人」の類いこそ描かれてはいないのだが、惻々と迫りくる「被虐的に甘美な恐怖」が、たしかに描かれていたのである。

そんなわけで、エガース監督が、魔女を描いたり、クトゥルフを思わせる異形を描いたりするのも、それは、それら異形そのものが好きなのではなく、それらの登場するシチュエーションにおける「不安な恐怖」が好きなのだ。ホラー映画的な、ワクワクさせてくれる「楽しい恐怖」が好きなわけではないのである。

捉えどころのない何物かに脅かされ、ただ迫りくる死の恐怖に怯えることしかできない無力な私。一一そんな状況に、エガース監督は惹かれている。
そしてそれは、裏で「性的な興奮」とも、隠微に繋がっている。

だが、だからこそ、それをわかりやすく、剥きつけに描くわけにはいかないのである。

しかしまた、わかる人にはわかってもらえるはずだと、エガース監督の作品とは、そんな作品なのである。

そして、どうして本作『ライトハウス』が、カンヌ映画祭において評論家筋からの絶賛されたのかと言えば、それはフランス知識人特有の伝統的な嗜好である「暗くマゾヒスティックなエロティシズム」を、エガース監督の作品が持っていたからなのであろう。

マルキ・ド・サドの諸作やポリーヌ・レアージュ『O嬢の物語』ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』、あるいはピエール・クロソウスキーの『バフォメット』などなどと、エガース監督との類縁性は、もはや明らかなのである。

だから、エロティシズム文学の本場であるフランスの評論家に、本作『ライトハウス』が、過剰なまでに高く評価されたのは、しごく当然の結果だったのであり、そのあたりの機微が、日本人やアメリカ人に理解されにくなかったのもまた、ごく自然なことだったのだ。

エガース監督はイギリス人だが、フランスには、代表的なエロティシズム作家として『城の中のイギリス人』を書いた、ピエール・ド・マンディアルグのいることも、決して書き落とせないところであろう。

一一そうした意味で、ロバート・エガース監督は、「恐怖」そのものではなく、「恐怖の中のエロス」を描く、「閉塞状況の中のイギリス人」なのだと、そのように理解すべきなのではないだろうか。



(2026年4月3日)

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