▷ 書評:宮島未奈 『成瀬は天下を取りにいく』(新潮文庫)
本書を読んだのは、もう2ヶ月以上も前なので、細かいところは記憶していない。
いつもなら、読んでから1週間以内くらいにはレビューを書くのようにしているのだが、今回は極端に遅れてしまった。
なぜ、こうなったのかというと、私は1月の末に、前立腺の全摘手術を受けるために前日入院し、翌日手術を受けてから8日ほど入院していたというのと、入院の1週間ほど前に、それまで4年あまり利用してきたSNS「note」の方で「投稿禁止」に食らったため、退院後はレビューを書いても、それをすぐにネットにアップする当てがなかったためだ。
それで、「note」ばかりではなく「mixi」だの「Amazonカスタマーレビュー」だのといったSNSの運営管理者から掣肘を受けることのない、個人のサイトを作ろうと、ついにそちらの作業に入っていたから、レビュー書きは退院後にも後回しにされてしまい、本書のレビューも今になってしまったのである。
そして、この新たに作った私の個人サイト「年間読書人の迷宮文書館」の構築がかなり進んできた段階で、レビュー書きを再開した。サイト開設時、記事が少なくてスカスカでは格好がつかないと思ったからだ。
しかしまたその頃には、「note」の投稿禁止から3か月近く経っており、その間に読んだ本も相当あった。
だから、新サイト用に書くレビューの順番を按配しているうちに、本書のレビュー書きが今になってしまったと、おおよそそんな次第だったのである。
ちなみに、本書を読んだのは、手術の前日。入院中のベッドの上であった。
初期の前立腺ガンであった私には、自覚症状はまったくなく、普段どおりの体調であったため、翌日の手術までは特にすることもなかったので、入院中に読もう持参していった本を読んでいたのだ。その最初の一冊が、本書だったのである。
まあ、こうした事情など、本稿の読者にはまったく関係のない話なのだが、レビューを金儲けのために書いているわけではない私としては、個人的な覚書き代わりということもある。
またそれとは別に、読んだ直後の感想ではなく、それからしばらく経ち、そのうえ読み返しもしないで書いたレビューというのも、それはそれで面白いのではないかと、そうも考えた。
言うなれば「2ヶ月経って、どれくらいの印象が残っている作品なのか?」ということを書いても、それはそれで意味があると思ったのだ。
読んでいる最中、あるいは読了直後の印象や感想ではなく、しばらくして、他の本もいろいろ読んだ後、それでも印象に残っている部分にこそ、その作品の魅力の中心があったのだと、そうも考えられるからである。
わずか数ヶ月で忘れてしまうような作品なら、それはそれまでのものでしかなかったとも言えようからだ。
もとより、内容紹介的なレビューを書くつもりだったら、そうもいかないのだが、私にはそんなものを書く気は毛頭ない。
だからこのように考えて、読後2か月に書くレビューというものに、独自の意味を持たせるのもまた一興かな、などと思ったのである。
一一こんな横着なことを考えて、しかもそれを堂々と書く者なんて、そうはいないのではないだろうか。
そんなレビュー、あなたは読んだことがあるだろうか?
○ ○ ○
とは言え、再読までする気はないが(つまり、これが本作に対するひとつの評価なのだが)、いちおうレビューを書くのだからと、本作のWikipediaくらいは確認した。
そして、それをひととおり読むと「ああ、こういう話だったな」と大筋のところは思い出した。だが、やはり脇役なんかについては、あまりよく思い出せなかった。
そもそも私は、昔から記憶力が弱いのである。小学生の頃、漢字テストが苦手で、記憶力の弱さが、長年のコンプレックスであった。
だが今はもう、それも克服したから、こうして「憶えてなくても、書けるものがある」なんて開き直っている。
ともあれ、とにかく暗記が苦手だから、暗記が中心となっていたり、それを大前提とする教科は、ぜんぶ苦手だった。
中学にもなると、算数ではなく数学となって、数式だか方程式だかを覚えなければならなかった。「サインコサインタンジェント♪」なのだが、そんな面倒なものを暗記すること自体に反発さえ覚えた。「式にはめて、あとは機械的に解けるような問題に、なんの意味がある」なんて、生意気なことを考えいたのだ。だから、いまだにそのあたりは何のことだかさっぱりわからないが、まあ、結局は、何も困りはしなかった。
当然、歴史では「年号」を憶えないし、憶えられない。科学でも、元素記号だとか、なんとかの法則だとかも憶えない。
暗記なんて馬鹿馬鹿しいと思っていたからで、当然、暗記が重要ではない教科(国語や美術)以外は、ぜんぜん振るわなくなっていった。親譲り(かどうかは不明だが)の記憶力の無さで損ばかりしてきた。
一一と、なんだか夏目漱石の小説の主人公についての記述のようだが、当然、成瀬ひかりのことではない。成瀬は勉強ができるのだ。
だからここまでは、私のノンフィクションである。無論、すでに名前はあった。
話を戻そう。
本書『成瀬は天下を取りにいく』は、周知のとおり、大ベストセラーになった作品である。
当然、世評も高い。だから、早々にWikipediaにも立項されている。
そこで、私の評価を語る前提として、本書を『成瀬は天下を取りにいく』が、どのような経緯で、どのくらいヒットした作品かについて、ここでWikipediaの記述を紹介しておきたい。

『『成瀬は天下を取りにいく』(なるせはてんかをとりにいく)は、宮島未奈による日本の小説。連作短編集。第39回坪田譲治文学賞、第21回本屋大賞受賞作。
概要
成瀬シリーズの第1作で、滋賀県大津市を舞台に、主人公・成瀬あかりの中学2年生の夏から高校3年生の夏までの間の出来事を描く5編と、外伝的作品「階段は走らない」1編の全6編から成る。
収録作の「ありがとう西武大津店」(ありがとう せいぶおおつてん)が『小説新潮』(新潮社)2021年5月号に、「階段は走らない」(かいだんは はしらない)が『小説新潮』2022年5月号に掲載されたのち、書下ろしの4編を加え、2023年3月17日に同社から刊行された。
2025年6月25日にはエッセイ「大津ときめき紀行 ぜぜさんぽ」と森見登美彦による解説を収録した新潮文庫版が刊行された。
「ありがとう西武大津店」は新潮社主催の第20回『女による女のためのR-18文学賞』で史上初のトリプル受賞(大賞、読者賞、友近賞)に輝いた、宮島の商業誌デビュー作である。
デビュー作ながら発売から半年で書籍、電子書籍合わせて発行部数10万部を突破し、後述の受賞歴にあるように第39回『坪田譲治文学賞』、2024年『本屋大賞』など数多くのアワードを獲得している。
2024年1月24日に続編となる『成瀬は信じた道をいく』が同社から刊行された。
2024年4月5日よりAudibleから、同年4月25日にはオトバンクからオーディオブックが配信された。
2025年9月に朗読劇が上演され、2026年7月に、本作と次作『成瀬は信じた道をいく』を原作に舞台化の予定。』
(Wikipedia「成瀬は天下を取りにいく」)
ちなみに、Wikipediaには別に「成瀬シリーズ」の項目も立項されており、そちらには、このシリーズが第3作をもって完結している旨、紹介されている。
『当初、宮島は続編を意識していなかったが、続編を望む声が多数寄せられたことから第2作『成瀬は信じた道をいく』が刊行されシリーズ化された。
(中略)
2025年12月、シリーズ完結作となる第3作『成瀬は都を駆け抜ける』が刊行された。宮島は「成瀬シリーズ」について、当初から第3作で区切る構想を持っていたことを明かしており、本作を完結編として位置付け、「元気なうちに終わらせたかった」と述べている。また、主人公の進路については物語内で明示せず、「読者に想像してほしい」としてシリーズを締めくくった。』
(Wikipedia「成瀬シリーズ」)

以上のように、本作はもともと単発の短編として書かれたものが、文学賞の受賞とその後の好評を得て、シリーズ化した作品だ。
だから、三部作をすべて読まなければ評価できないといったたぐいの作品ではない。
なので、私も安心して、シリーズ1冊目である本書『成瀬は天下を取りにいく』を、続刊を読まないまま論じたいと思う。
○ ○ ○
まず最初に言っておけば、私も本書を楽しく読むことができた。
若者向け作品の賞とは言え、さすがはいくつかの文学賞の受賞しただけのことはあるし、ベストセラーになるというのもよくわかる。
とにかく、物語小説として楽しく読めるのだ。作者の宮島未奈が、ストーリーテラーとして達者な作家であるという評価に異論はない。
ただし、文学読みには言うまでもないことだから、本書は、いわゆる「(純)文学」作品ではなく、「エンタメ」小説である。
無論、私はここで「文学」と「エンタメ」を区別して、どちらが上だなどと序列化したいわけではない。
両者は、小説という表現形式において共通してはいても、その「狙い(意図するところ)」には、やはり違いがあるので、その点を、原理的に区別しているだけである。
また当然のことながら、「文学」作品と「エンタメ」小説とは、画然と2種類に区別・線引きできるわけではなく、どんな小説にも、この二つの要素が多かれ少なかれ含まれている。
言うなれば、その「含有比率」が違っているだけであり、それによって「文学寄りの作品」もあれば「エンタメ小説寄りの作品」もある、ということだ。
そして、その意味では、本作『成瀬は天下を取りにいく』は、明らかに「エンタメ小説寄りの作品」だということになるのだ。
「文学寄りの作品」が芥川賞を取ったが故に、その話題性で売れたとかいったようなものではなく、読んで素直に楽しい作品だから売れたのだ。
日頃あまり小説を読まないような人たちが、話題に釣られて読んだような場合でも、心から楽しめる作品になっていたのである。
では、本作の魅力とは何なのだろうか。
それは、ひとえに主人公・成瀬ひかりのキャラクター(性格・人格)にある。
そう断じて良い、なかなか強烈なキャラクターなのだ。

『成瀬 あかり(なるせ あかり)
滋賀県大津市生まれ、同市在住のきらめき中学2年生→膳所高校3年生。
周囲から「変わった子」と思われても、ブレることなく興味の赴くまま我が道を突き進む。』
(Wikipedia「成瀬は天下を取りにいく」)
こうあるとおりで、成瀬はとにかくマイペースなのだ。
だが、ここで言うマイペースとは、のんびりしているという意味ではなく、一人で勝手にぐいぐいいくタイプなのである。それが、
『ブレることなく興味の赴くまま我が道を突き進む。』
という紹介の意味である。
だが、当然のことながら、こうしたキャラクターを持った人物は周囲から浮くし、いじめの対象にもなりやすい。
事実、成瀬が小ずるい嫌がらせを受けるエピソードもあるのだが、しかし成瀬は、そんなものを歯牙にもかけないで、自分の道を突き進むからこそ格好がいいのだ。
まただからこそ、そのようには生きられない多くの読者の「憧れの的」にもなるのである。
成瀬のこうした、『ブレることなく興味の赴くまま我が道を突き進む。』という性質は、本作第一話であるデビュー作「ありがとう西武大津店」に、典型的に示されている。
そこで成瀬は、閉店になると知った地元の西武百貨店に、閉店のその日まで、毎日通おうと決意して、それを実行する。
当然、生まれた時から存在しており、利用しすることもあった地元の百貨店には、愛着があったのであろう。
だがまあ、普通の大人からすれば「なんでそこまでするの? よっぽど暇なんだな」ということにしかならない。成瀬の同世代だって、普通はそうなのである。
一一だがだからこそ、その行動には、「特別な価値」が生じもするのだ。
言い換えれば、誰が見ても「それは意味のある行動だ。やる価値のあることだよ」というようなことなら、理解しやすい行動ではあれ、結局は、無難かつ「凡庸」な行動でしかない。
要は、「世間の価値観」と合致した行動であり、だからこそ世間の納得も得られれば褒められもして、その意味で「社会的な承認」を得ることもできる。
だがだからこそ、かえってそれは「凡庸」なものにもなってしまう。
一一少なくとも、「天才」のするようなことではなくなってしまうのである。
つまり、成瀬の行動は、そうしたありきたりなものではなかった。むしろ突飛なものだったのだ。
ただ彼女は、その行動が自分にとって価値のあるものだと感じられるからそれをしたいし、それをするだけで、他人の評価なんて、知ったこっちゃない。一一そういうことのである。
そして、そんな成瀬の行動規範とは、私たちが内心では「そうありたい」と思いながらも、なかなかそうは出来ないところものなのだ。
「こんなことしたら、人から何と思われるだろう? バカじゃないかと言われるのが関の山だろうし、実際それをやったからって、私には何のメリットもないんだから、やっぱり止めておこう」
こんなふうに考えるのが「普通の人」であり、本書をベストセラーにした読者なのである。
したがって、成瀬ひかりとは、凡人にとっての「憧れのスーパーマン」なのである。
私たちが、いくら憧れても、そうはなれない卓越した才能(意志と価値観)をもっており、それを行動で示しているから、私たちは「成瀬のように生きられたら、どんなに気持ちいいことだろう」と、そう感じてしまう。
成瀬の、数は少なくても親しい友人たちがそうであるように、そうという自覚もないまま、彼(女)らは成瀬の魅力に惹きつけられていくのである。
だからまた、そうした意味では、成瀬は「完璧なスーパーマン」だ。
そしてこの場合の「完璧」とは、手の届かないところにいる「特別な存在だとは思わせない」ところにこそある。
人は、自分には望んでも得られないような才能に恵まれた優れた存在に、しばしば妬みを覚え、反発してしまう。
ところが、成瀬の場合、ろくに勉強している様子もないのに勉強ができるとか、他人の目を気にしない強靭な精神の持ち主であるとかいった、わかりやすい「スーパーマン性」だけではなく、一般には肯定的な評価につながらない、「おかしなな興味の持ち方」をして「変な行動」をするといった特性もある。
つまり、その意味で「絶妙に、欠点(に見える部分)もある」のだ。
言い換えれば、「完璧すぎない」という完璧性を成瀬は備えており、その意味において、「完璧な
ーパーマン=完璧すぎて嫌味になるということのない、その意味で完璧なスーパーマン」なのだ。
そのうえ、わかりやすくその優しさや気づかいを表現することはせず、しごくさりげなくそれをするからこそ、成瀬は私たちのハートを射抜いてしまう。
そんなところも含めて、成瀬ひかりという主人公は、稀に見る「非のうちどころのないスーパーマン」なのだ。
したがって、これではヒットしない道理がないのである。
しかし、こうした魅力的な人物造形は、作者の手堅い技量によって与えられたものであって、決してたまたまのものではない。
それは僥倖的なものではなく、計算し尽くされ、狙ってとおりに作られたものである。
というのも、このシリーズには、次のような特徴がある。
『当初、宮島は続編を意識していなかったが、続編を望む声が多数寄せられたことから第2作『成瀬は信じた道をいく』が刊行されシリーズ化された。
主にあかり以外の登場人物が視点主となり、あかりや視点主の周辺で起こる出来事の語り部として物語が進行する構成が取られているが、あかりがほとんど登場しない「階段は走らない」や作者視点の「ときめき江州音頭」「成瀬慶彦の憂鬱」「そういう子なので」などのエピソードも存在する。』
(Wikipedia「成瀬シリーズ」)
つまり本作は、成瀬の「一人称」小説ではなく、周囲の人物または作者(を思わせる語り手)視点の三人称描写による小説なのだ。
したがって、成瀬の「内面」が、直接描写されることはない。ここが重要。
成瀬の一人称小説だった場合を考えてみれば、本作がなぜ他者視点の三人称小説になっているのか、その理由は明らかであろう。
成瀬の一人称であった場合、彼女の突飛な行動の「理由」や「根拠」といったものが、おのずと、一人称の「心内語(独白)」で語られてしまうことになる。
「私のとっての西武百貨店は、これこれこのような理由で、これほど大きな存在だった。だから私は、こんなことをするんだ」
とか、
「こんなつまらない嫌がらせなんて、気にするまでもない。むしろ、こんなことをしなければならない彼女たちは、憐れませるべき存在なんだ」
とか、
「島崎は本当にいいやつだ。大好きだ」
とかいった「独白」を、読者はわざわざ読まされたくはないはずなのだ。想像させられるからこそ、そこに価値がある。
成瀬がおおよそそんなことを考えているのだろうと感じてはいても、それはこちら(読者)の推察したことだから、決して、成瀬の考えが押しつけられたことにはならない。
だからこそ、それに抵抗や反発を覚えることもない。なにしろ、こっちが勝手に忖度しているだけなのだから。
つまり、成瀬は、自らを語らない、主張しないからこそ、魅力的なのである。個性的ではあっても、ウザくはならないのだ。
あれだけ凄いのだから、自分を主張しても良さそうなものなのに、決してそれをしない。
また、成瀬の行動に共感した結果として、彼女と行動することを拒みはしない(ことさらに他人を拒んだりはしない)が、自分の価値観を人に押しつけようとはしない。
また、そんな成瀬だからこそ、珍しくも成瀬の方から一緒にやろうという意志を示されると、それはよっぽど自分のことを信頼してくれているのだとわかるから、つい感激してしまうのである。
つまり、成瀬については、その「内面を描かない」という手法において、「生々しい人間」性が解除されているのである。
だから私たちは、安心して成瀬を信頼することが出来るようになっているのだ。
好きになっても、決して裏切られることのない人物として描かれている。そのように、作者によって作られているのである。
だが、だからこそ、本作は「エンタメ」であって、「文学」ではないのだ。
成瀬とは、まさに「実在しない偶像」であり、安心して憧れることのできる存在であって、決して「内面を持つ人間」ではないのである。
だから悪いというのではない。だが、私たちが成瀬に感じる魅力とは、彼女が「当たり前の人間」ではないが故の魅力なのだということは、知っておいてもいいだろう。
私たちは、本作に「夢を見させてもらっている」のである。
そして、そうした「現実逃避」を、必ずしも否定はせず、「それも人間には必要なものなのだ」と無条件に肯定するのが、「エンタメ」というものなのである。
○ ○ ○
ちなみに、本書は『成瀬は天下を取りにいく』という、戦国武将を思わせるようなタイトルなので、読むまでの私は、成瀬という女性主人公が大活躍をして、どんどんと成り上がっていく物語なのだろうと、おおよそそんなイメージを持っていた。一一だが、実際には、そんな物語ではなかった。
むしろ、成瀬は身近なものを愛し、それを大切にする地元愛の人であり、そこがまた好感ポイントでもある。決して、大きくは出ない。メジャー指向ではないのだ。
好きなことをするけれでも、社会的な意味での「欲」はない。
しかし、ならばなぜ、作者の宮島未奈は、『成瀬は天下を取りにいく』なんていう、ズレた印象のタイトルをつけたのであろうか?
もちろん、あえて内容とは真逆の、インパクトのあるタイトルをつけた、ということもあるだろう。
だが、私が思うのは、このタイトルは、主人公・成瀬ひかりのことではなく、実は作者の思いを、主人公に託して表現したものだったのではないだろうか。
『誕生からシリーズ化の経緯
本シリーズは、宮島が2020年10月に第20回「女による女のためのR-18文学賞」へ応募した短編「ありがとう西武大津店」が端緒となっている。同作は同賞史上初となる大賞・読者賞・友近賞のトリプル受賞を果たしたが、宮島は「それまで何度も新人賞で落選していたので、執筆当時は『これも受賞できなくたって全然おかしくない』と思っていた」ため、受賞の連絡には「腰を抜かしそうになった」という。受賞後、同短編の主人公・成瀬あかりのその後を具体的に考え始め、2023年3月にデビュー作『成瀬は天下を取りにいく』(以下『成天』)として刊行された。
シリーズ化は当初の構想ではなく、宮島は「本当は『成天』だけで成瀬の物語は終わりにするつもりだった」としている。しかし、『成天』が多くの反響を得たことや、編集者からの要望を受け、続編『成瀬は信じた道をいく』(以下『成信』)、完結編『成瀬は都を駆け抜ける』(以下『成駆』)の執筆に至った。』
(Wikipedia「成瀬シリーズ」)
つまり、自分が売れっ子作家になるなんて思ってもいなかった宮島は、「ありがとう西武大津店」の大反響をうけ、続編の短編を書いて、それらを一冊の本(第一著書)として刊行する際に、
「私は成瀬で天下を取りにいく(畢生の勝負作である)」
と、そうした思いがあったのではないだろうか。
作者の宮島未奈は、成瀬ひかりとは違って、実在の人物なのだから、それくらいの思いがあっても当然だし、それは何も悪いことではない。
しかしながら、そうした人間的な「欲」を見せられると、いささか鼻白んでしまうというのも、私たちの性(さが)なのだ。
私たちはつい、ヒーローに「無欲」を求めてしまう。
それは、私たち自身が、否応なく成功や承認を求める欲望まみれの存在であり、そのために苦しんでもいるからなのだ。
(2026年4月5日)
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