山本暎一監督 『哀しみのベラドンナ』: 悪魔の光、魔女の知

▷映画評:山本暎一監督『哀しみのベラドンナ』(1973年)


私にとってもまさに「幻の作品」だったのが、本作『哀しみのベラドンナ』だ。

ただ単に見る機会の少ない、その意味で、これまで見ることが出来なかっただけの作品を、仰々しく「幻の作品」だなどと呼んだりはしない。
断片的な情報ではあれ、それだけでも大いに期待の出来る作品であったからこそ、是非とも見たいと思い、そう思いながらも長らく見る機会の得られなかった作品だったからこそ、私は本作を「幻の作品」と呼んだのである。

先般より、虫プロ制作のアダルトアニメ三部作を、制作年順に『千夜一夜物語』『クレオパトラ』と見てきたのだが、今回の『哀しみのベラドンナ』は、その掉尾を飾る作品である。

しかし先の2作は、パノラミックな大作アニメということで「アニメラマ」と呼ばれたのだが、本作の場合は前2作品と一線を画する意味で「アニメロマネスク」という呼称の用いられている。途中から手塚治虫が離脱しているということもあるが、本作には手塚色は無いと断じてもいいだろう。

本作スタッフとして「美術」という肩書きになっている深井國は、今も古びない洗練された画風で知られるイラストレーターだが、本作での役割は、今で言うところの「(背景)美術監督」だったわけではない。

メインの登場人物のキャラクターデザインはもとより、作品世界全般のビジュアルコンセプトの中心にいたのが、深井であった。
彼の、時代に先駆けた(あるいは、時代を超えた)ヴィジュアルセンスをそのまま活かし、彼の描く魅力的なキャラクターを動かすことで、アニメ映画にしようとしたのが、本作『哀しみのベラドンナ』だった。
だからこそ、私の期待は嫌が上にも高かったのである。

クリムトの代表作「接吻」を思わせる構図と豪華さ)

一一だが、結果から言うなら、その期待は裏切られた。
本作を鑑賞した今なら、なるほど、「幻の作品」になってしまった理由も理解できる。

本作の決定的な問題点は、あくまでアニメ作品であると名乗りながら、本質的なところでアニメ作品にはなっていない点なのだ。とにかく、動かないのである。

しかしながら私の場合、アニメだからといって、とにかく「動かさねばならない」というような立場の人間ではない。
むしろ、初期の東映動画(現・東映アニメーション)的な、あるいは宮崎駿的な、「アニメは動いてなんぼ」的な立場は採らない。

アニメーション作品であっても、それを「映画」の一種、あるいはドラマ性を持たせた映像作品として制作するのなら、動けば動くだけ良いというようなものではなく、必要なところで必要なだけ「過不足なく」動かすことこそが重要であると、そう考える立場であり、そのように強く訴えても来た。

だから、本作『哀しみのベラドンナ』についても、深井國のキャラクターが、ただまともに動くだけのドラマになることや、ましてや『未来少年コナン』(や「さらば愛しきルパンよ」)のように、動きまくる作品になることを期待していたわけではない。

深井國のキャラクターの持つ、「アンニュイな大人の雰囲気」を生かすためには、必ずや抑えた演技や様式化された演技(動き)が必要であり、生活リアリズム的な演技をさせれば良いというものでもないと、そう感じていたからだ。

(どこか米倉斉加年の絵を思わせるが、米倉は声優として参加していただけのようである)

そしてその点では、本作スタッフ、なかんずく山本暎一監督も、そこは押さえた上で、本作においては、実験的な表現に意欲的に挑戦したのだろうが、いかんせんその方向性が、いささかズレていたようである。

つまり、動かないでいいところは動かさなくてもかまわないのだが、結局のところ本作の場合は、深井のキャラクターを「動かせなかった」のである。

それは、キャラクターデザイン的に動画にするのが難しかったといった技術的なことではない。
深井のキャラクターは、動かないイラストとしての「様式」の完結性が高いために、動かしてしまうと、その様式を崩すことにしかならなかったのだ。

つまり、深井國の達者な絵は、まず描かれた人物、特に女性に表れた個性がまず目を惹くものの、やはりそれは、キャラクターとして、それだけで自己完結したものではなく、その様式的な構図や水彩画的なタッチなどのそのすべて含めて、深井國の絵だったのである。

だから、そこから、キャラクターだけを抜き出して動かそうとするのは、深井國の絵の完結性を破壊することにしかならなかったのだ。
だからこそ、動かしたくても、簡単には動かせず、結果として、動かないイラストをカメラワークの動きだけで見せるシーンを多用することになってしまった。

そうすれば、深井の絵の魅力を台無しにすることなかったけれど、しかし、アニメーション作品にもならなかったのだ。

では、本作は、単なる絵物語ではなく、かと言ってアニメーションと呼ぶにはつらい、アニメーションの魅力を欠いた、一体どんな作品になったのだろうか?

ひと言で言うならばそれは、「動く絵本」である。

大半が動かないイラストを映しただけのものであり、完成したイラストを、左右に引いたり、寄ったり退いたりの動きをつけて見せるだけ。
カメラワークの用語としては、カメラ自体が左右に移動する「トラック」や、前後に移動「ドリー」などによって、画面に動きをつけているのだが、これはアニメーションではなく、単なるカメラワークだ。

しかし、これだけでは、絵本を写し、それにセリフやナレーションをつけただけの、キャラクターに動きのない「電気紙芝居」にすぎない。
そのため、深井國の絵の雰囲気を壊さない範囲において、いささか居心地わるそうにアニメーション作画が部分的に導入されている。

だが、それでもアニメーションカットの大半は、深井のキャラクターの魅力とは無関係に等しい、実験的な表現を押し出したものでしかない。
つまり、深井のデザインしたキャラクターに関わるシーンやカットにおいては、動いているのは「口パク」まで含めても、せいぜいその20パーセントほど。

アニメーション作品と銘打っているからには、動かさないわけにはいかないから、動かしても大過のないような、主に「退き」の絵において、無難な範囲で動きがつけられているのである。

したがって本作は、言うならば「パート・アニメーション作品」とでも呼ぶべきものにしかなっていないのだ。

そして、それを補うようにして持ち込まれているのが、前述のとおりで、アニメーション作品における実験的な、エロティック表現である。

『千夜一夜物語』や『クレオパトラ』で、ごく一部に用いられて好評を博した、アニメーター杉井ギサブローによる、半ば抽象化されたエロティシズム表現が、本作ではかなりの部分を占めており、そこが売りでもあれば話題になった部分でもあったのだ。

(動くとかなり卑猥な感じになる)

だが、そのアニメーション部分において、深井國のデザインしたキャラクターの魅力を生かせていたかというと、そうは評価し得ない。
あくまでも、キャラクターデザイン的に「似せて描いた」という域を出ず、深井の絵の持つ、落ち着いた様式性については、全てではないにしろ、そのほとんどを否応なく捨てることになってしまっているのだ。

しかしまた、だからといって、本作制作の現場では、作品の世界観の中核をなす深井國のイラストの魅力を捨てるわけにはいかないから、そこは手を変え品を変えて、見せ方に工夫をしたのである。

例えば、深井國の自己完結的な様式美とは別に、見る者の目をわかりやすく惹きつける別種の様式が、本作では矢継ぎ早に導入されている。
それが、次のような評価につながってもいるのだ。

『中世のゴシック様式の挿絵から、ビアズリー、青年様式派、ポップアートまでに至る無数のスタイル(中略)アート映画的な映像表現』

(Wikipedia「哀しみのベラドンナ」・「評価」の項目より)

(明らかにビアズリーを意識している)

たしかにこうした努力は見る者の目を惹くのだが、目を惹くだけであって、それが本作の物語世界への没入に、どれほど寄与しているかとなると、これはかなりあやしいと言わざるを得ない。

たしかに、手を替え品を替えて楽しませてくれはするのだが、そこでは物語の方が付け足しででもあるかのように霞んで、印象の薄いものになってしまっている。
だから物語映画としては、かなり退屈なのだ。

では、その「物語」の中身は、どんなものだったのだろうか。

 ○ ○ ○

本作は、フランス人作家で歴史学者ジュール・ミシュレ『魔女』を原作としており、ざっくり言えば「魔女と呼ばれた女の、悲劇的な人生」を描いた作品だ言えるだろう。


ストーリーは、次のとおりである。

『教会と領主が支配する中世フランスのある村で、若い2人の男女、ジャンとジャンヌが結婚式を挙げた。しかし、貧しい農夫のジャンは領主に貢ぎ物を捧げられなかった。その代償としてジャンヌは領主に処女を奪われ、さらに家来たちにも次々に陵辱される。身も心も傷ついてジャンのもとに帰ったジャンヌの前に、やがて悪魔が現れた。ジャンヌは悪魔に、働き通しで疲れ果てているジャンを助けてくれと懇願する。

ほどなく、ジャンヌが紡いだ糸が高値で売れるようになり、高い税金を納められるようになった。ジャンは村の税取り立て役人に出世するが、貧しい農民たちから戦争のための資金を思うように調達できず、罰として領主に左手首を切り落とされる。するとまたしてもジャンヌの前に悪魔が現れ、力を与えるかわりに魂を渡せと迫りながら、ジャンヌの体を貪っていく。

やがてジャンヌは妖しい魔性を持った金貸しとなり、村の経済を動かすようになったが、彼女の存在を快く思わない領主の奥方や村人たちに、悪魔つきと呼ばれて激しく追い立てられる。酒浸りとなっていたジャンにも見捨てられ、絶望したジャンヌは、逃亡の果てにたどり着いた深い山中で、ついに悪魔と契りを交わして魔女となった。

その後、黒死病が蔓延し、大勢の人々が死んでいった村で、ジャンヌは薬草によってひとりの村人の命を救う。噂が噂を呼んで、村人たちはジャンヌのもとへ集うようになり、夜毎サバトが行なわれた。その影響力が領主の城内にも及ぶに至って、領主はジャンヌを処罰するより味方に引き込んだほうが得策と考え、ジャンを介してジャンヌを城に呼び寄せる。しかしジャンヌは提示されたあらゆる厚遇を拒否したため、領主の怒りを買い、火刑に処されてしまう―。』

(Wikipedia「哀しみのベラドンナ」

(領主による陵辱シーンでの、破瓜を表現したアニメーション。かなり強烈な印象を与える)


つまり、「愛する男ジャンのために、悪魔との契約を交わして力を得、それでジャンを救ったものの、その彼にまで捨てられた主人公ジャンヌは、薬草ベラドンナの力で、村人たちに性愛のおける自由を与える魔女になった。その結果、彼女の影響力を取り込もうとにすり寄ってきた世俗権力が、彼女に求めた野合を峻拒して、ジャンヌは火刑による死を選ぶことになる」という物語のなのだ。

本作は、Wikipediaにもあるとおり、ビジュアル的には面白いが、ストーリー的には『難解』だとされた作品である。

どこが難解なのかと言えば、要は、悪魔に魂を売って「悪いことをしたい」を望むようになったジャンヌは、「悪なのか、それとも悪ではないのか」が、いささかわかりにくい、という点であろう。

たしかにジャンヌは、悪魔に魂を売ってその女となり、催淫薬となる薬草ベラドンナを使って、村人たちを巻き込む乱交の宴であるサバトの中心者となる。
つまり彼女は、素朴な村人たちを性的に堕落させて、その慎ましい生活を乱したのであり、その点では「悪」という印象が強いのだ。

だが、そのジャンヌを敵視する「領主と教会」の結託した権力が、「善」なのかと言えば、とうていそのようには見えない。

民衆に勤労と慎ましい生活の美徳を説き、性的な放縦を戒める彼らは、理屈としては「清潔な生活=神からの祝福を受けるに値する生活」を民衆に求め、その指導をしているように見える。それもこれも、すべては人々が「天の国」に迎え入れられるため、ということなのだ。

だが、それはあくまでも「建前」であって、彼らのやっていることは、フィクションとしての「神の人間に課した倫理」によって人々を束縛し、そこから世俗的な利益を搾り取ることでしかないように見えるのだ。神の名において、民衆から搾取している悪人にしか見えないのである。

つまり、ジャンヌも「悪」なら、領主と教会という複合権力もまた「悪」にしか見えず、本作を見る者は、特にジャンヌの側における「悪徳の栄え」をどう評価すれば良いのかと、迷ってしまうのである。

だがこれは、本作の作られた時代背景を踏まえれば、さほど理解の難しい話ではない。

つまり、1973年といえば、1960年代から1970年代初頭にかけ、アメリカを中心に世界へと広まったカウンターカルチャー(対抗文化)としての「ヒッピー文化」から、直接的かつ大きな影響を受けた作品なのだと、そう容易に理解できるのだ。

現にこのヒッピー文化では、「性の解放(フリーセックス)」や「サイケデリック」ということが言われた。

また、こうした流れと同時に、男性に従属する存在と考えられていた女性について、男性と同じ人間として同等の権利を主張するフェミニズムの思潮も、同じ対抗文化としてのヒッピー文化と影響しあいながら、その広まりを見せていたのである。

つまり、1973年の作品である『哀しみのベラドンナ』においては、「性の放縦」は決して「悪」ではないのである。

それは、民衆を「神の聖性」というフィクションにおいて縛りつけ、教会の権威に従わせようとした、キリスト教会による「まやかし」の言説でしかなかった。

本来、フィクションとしてのキリスト教倫理に縛られることなく、人間の性もまた、完全に自由なものであるべきなのだ。
一一というのが、ヒッピー文化における「自然主義的な自由思想」だったのである。

だから、キリスト教文化における「悪」は、本来的な「悪」ではなく、キリスト教の権威やそれと結びついた世俗権力(領主・国王など)によって作られた、汚名としての「悪」でしかない。
むしろ、悪魔や魔女と呼ばれた彼ら彼女らは、そうした欺瞞の闇(無明)からの「解放者」であり、人々を縛っていた虚偽の束縛を解いて「自由」を与え、真理に目覚めさせる存在なのだ。

当然それは「悪」などではなく、偽の聖性を振りかざすキリスト教権力に対抗する、「自然の力」であった。
また、そうであったればこそ、「悪」という汚名を着せられていただけだったのである。

一一というのが、ヒッピーたちの論理だったのだ。

したがって、本作における「魔女」は、「悪」ではない。

魔女と呼ばれるようになったジャンヌが体現したのは、世俗権力(王権)や、それと結託した教会権力、そして、それらと無関係ではあり得ない「男性という権威」からの「自由」であった。
ジャンヌは、もはや何者にも縛られない自由な存在としての、魔女になったのである。

(ここはアニメーション)

そして、ジャンヌはなぜジャンヌと名付けられたのかといえば、それはきっと彼女が、裏返された「オルレアンの少女」ジャンヌ・ダルクだったからである。

素朴な村娘でしかなかったジャンヌは、ある日「神のお告げ」を受けて、祖国フランスを守るための神託の騎士として、その戦列の先頭に立つこととなり、カリスマとしての奇跡的な活躍をした。

しかしながら彼女は、最終的には、悪魔と契約を交わした魔女として、火刑に処せられて死ぬことになるのである。

つまり、悪魔と契約することで、世俗権力と教会権力による野合的な欺瞞に対抗し、人々を「自由」に導こうとし、権力からの誘惑を峻拒して自ら火刑を選んだ、本作『哀しみのベラドンナ』の主人公ジャンヌは、裏返されたジャンヌ・ダルクだったのである。

したがって、ジャンヌを解放した「悪魔」もまた、決して「悪」ではない。

自身「悪魔」だと名乗っていたとしても、それは「フィクションとしての神=欺瞞としての聖性」への敵対者であり、神の欺瞞を暴くものとしての「悪」であって、それは人々を解放する「自然」の謂なのだ。
だからこそ彼は、性愛を無条件に肯定し、快楽に身を任せよ、何も恐れることはないと、そう誘惑する。



(最初は子供の男性器のように小さかった悪魔は、ジャンヌを性的に挑発し、その欲望を栄養にして巨大化していった)

自然は、あるいは自然な動物は、キリスト教倫理に従うものではなく、その意味では「悪」なのだが、そこには元来、善も悪もなく、ただ「あるがままの自由」があるだけなのだ。

「悪魔」とは、そうした「自然」を体現した存在なのであって、決して「キリスト教倫理」が言うところの「悪」などではなかったのである。

さて、このように考えていけば、本作のストーリーは、決して難解なものではない。

要は、二つの「正義」であり「倫理」がぶつかり合い、片方は自分たちの立場を「善」だと僭称し、その欺瞞に対抗する側の者は、自らを「(奴らが言うところの)悪」だと、そう名乗っていたにすぎない。

だから、その名称は、その中身や実態を保証するものではないのだから、私たちは自分の目で、彼らの善性と悪性をよくよく見定めなければならない。自称名などに惑わされてはならない。
しばしば「悪」は「善」を僭称し、逆に、時に「善」は、あえて「悪」を自称することもあるからなのだ。

ただ、その上で言っておけば、彼らの対立とは、言うなれば、一人の人間の中の善性と悪性との対立みたいなもので、一方が勝ち残って、一方が完全に死滅してしまうなどということにはなり得ない。

私たちの中には、自らが選び取って引き受ける「倫理としての正義」があるその一方で、そうした正義が原理的に含み持つ「偽善的な束縛」の欺瞞を不服として、そこから自由になろうとする「本能」もある。

人間という動物は、本能的なものを巡って、相矛盾する性質を抱えた特殊な存在(自己矛盾的な動物)であり、そのためにそうした矛盾の解消されることは、ついに(永遠に)ないのだ。
それは、善と悪との戦いではなく、「善と悪」という、縛りを求める欲望とその縛りを拒絶して自由たらんとする欲望との、永遠の(内的な)葛藤相剋なのである。

そして、こうしたことは、本作の原作者ジュール・ミシュレがどういう人なのかを知れば、比較的理解しやすいところである。

ジュール・ミシュレ(Jules Michelet、1798年8月21日 – 1874年2月9日)は、19世紀フランスの歴史家。「ルネサンス」の造語者

生涯
パリのトラシ街 (fr, 現在のパリ2区) 生まれ。印刷業者の父の仕事を手伝いながら勉強に励んだ。リセ・シャルルマーニュ(現在のパリ4区)を経て、1819年に文学博士となり、1821年にアグレガシオンに通り、1827年に高等師範学校の歴史学教授となる。ヴィーコの歴史論・哲学の影響を受けた。1830年の七月革命を境として、王党カトリック的立場を離れ、自由主義に転じた。1831年、国立古文書館の歴史部長。1834年、ソルボンヌ大学教授としてギゾーの講座の代行者。1838年からコレージュ・ド・フランスで教授となり教鞭をとった。これ以降、民主主義的・反教権的になり、保守化した当時の支配者ルイ・フィリップや、体制側のギゾー批判を行った。

1848年に二月革命が起きると熱狂的に支持した。1852年、ナポレオン3世への宣誓を拒否し、コレージュ・ド・フランスの教授の地位を追われた。晩年は隠棲し、博物誌シリーズなどを著述。

その歴史記述の手法は、過去を生き生きと再現し、つまびらかに描写することにあった。また、国家・政府や人物を、倫理の象徴のように思わせるところにも特徴があった(その点に、ロラン・バルトは着目する)。歴史の中での民衆の動きを捉え、アナール学派にも影響を与えているとされる。なお、『フランス史』第7巻(1855年)においてフランスのルネサンスフランソワ1世以降)について記述しており、これが「ルネサンス」という用語を学問的に使用した最初の例とされる。イエール (ヴァール県)で死去し、パリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた。』

(Wikipedia「ジュール・ミシュレ」

つまり、もともとは王党派カトリックの人だったのだが、民衆革命を目の当たりにすることによって『民主主義的・反教権的になり、保守化した当時の支配者(…)や、体制側(…を)批判』した人なのである。

ルネサンスつまり「人間復興=人間が人間らしくあること、人間らしさを取り戻すこと」を求めて、それまでの抑圧的な「権威」に対抗し、「中世の闇」を払うことの一翼を担った人、それがミシュレなのだ。

そしてそんな彼にとっては、キリスト教において「魔女」とされた存在とは、「自然科学の知」を身につけ、その「自然の教え」に従って「教会権力」に対抗し、人民を解放しようとした「革命家」の謂だったのである。

だから「魔女」は、性別ではなかった。男であっても「魔術(教会の認めない知)」を弄する者は、「魔女」認定され、火刑に処せられたというのは、人気マンガ 『チ。 ―地球の運動について― 』(魚豊)などでも描かれていたとおりだ。

教会の絶対的な世界観に沿わない知識は、すべて「異端の知」であり、自然観察に拠った自然科学としての天文学の「地動説」もまた、当然「異端」の知であり、それを唱える者は「異端」者であり、それによって人々を惑わす者は、性別のいかんを問わず「魔女」認定されたのである。

本作『哀しみのベラドンナ』においても、領主の横にいつも影のごとく寄り添うよう「イエス・キリスト」似の教会神学者は、ジャンヌの「薬草学」の知を、「異端」と呼んでいたのである。


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さて、ここまでで、本作における「ビジュアル(作画)面」の問題点についての指摘と、難解とされるそのストーリーの意味についての解説を行なった。
これで、本作がどういう作品なのかが、かなり見えやすくなったはずだ。

だが、あとひとつだけ、つけ加えて指摘しておがなければならないことがある。
一一それは、本作中でしばしば流される主題歌「哀しみのベラドンナ」(作詞:阿久悠、作曲:小林亜星、編曲:川口真、歌:橘まゆみ)の問題だ。


端的な言ってこの曲が、本作の「フランス趣味」であり、反キリスト教の「反権威主義」といったこと、つまり「個人的な情ではなく理」に偏った性格に反して、あまりにも「日本的な情歌」であり、恥ずかしいほど絵面との齟齬をきたしていた。
本作の、前衛的な世界観を一瞬で台無しにするほど、作品の足を引っ張っていたのである。

「なんだこれは? あまりに酷い」と、私はほとんど苦痛を覚えながら聞いていたのだが、この曲は、どこかでよく耳にした曲にそっくりだとそう感じて、あれこれ思案したところ、思い出したのは、日本の時代劇ドラマ「必殺シリーズ」のエンディングテーマ曲であった。
曲名までは思い出せなかったが、「恋い慕う女性」の心情を、情に訴えるかたちで切々の歌った曲が、本作の主題歌「哀しみのベラドンナ」にそっくりだと、そう感じたのである。

それで、記憶に残るその曲を、記憶する歌詞の断片からネット検索したところ、それは「必殺シリーズ」の作曲を担当した平尾昌晃による大ヒット曲、西崎みどりの歌う「旅愁」だと判明した。

一方、「哀しみのベラドンナ」の作曲家は、平尾ではなく、こちらも人気作曲家であった、小林亜星であった。

つまり、同じ作曲家による曲だというわけではなかったのだが、両者には、否定しがたい共通性した「匂い」があると、私にはそう感じられた。

平尾昌晃と小林亜星は、小林が5つ上の同世代であり、言うなれば、どちらも「昭和」を代表する人気作曲家で、ポピュラーな曲も数多く作曲してはいるが、「演歌」も作曲しており、どちらも「演歌的な情」を自然なものとして理解していた作曲家である。

だから、平尾昌晃が作曲した「必殺シリーズ」のエンディング曲「旅愁」は、小林亜星の作曲になる本作の主題歌「哀しみのベラドンナ」とは、「不幸な女性の心情を歌った」その歌詞において共通性があるだけではなく、その曲調において、今となっては明らかに共通するものがある。

そして、それは何なのかといえば、私はそれを、抜きがたい「昭和の情」であり「女性観」だと表現したい。
両者は、そうした共通性において、交換可能なまでに似た雰囲気を持っているのだ。

だが、しかしまたそれは、日本的な「情」において「必殺シリーズ」には合致していても、『哀しみのベラドンナ』という「革命」を描いた作品には、まったく不似合いな曲調だった。
ことに今となっては「もう少しどうにかならなかったのか?」と、そんな強烈な違和感を覚えさせられる、ベタに過ぎる曲だったのである。

そして、こうした「情に訴える(わかりやすい)物語」ではなく、それとは真逆に「常識を覆す思想性を持つ物語」という意味でも、本作『哀しみのベラドンナ』という作品は、日本人にはまだ新すぎたのではないか。
新すぎて消化しきれない物語だったのではないだろうか。

魅力的な素材が、いろいろと贅沢につめ込まれていながら、それをひとつのものにまで融合昇華させることの出来なかったがゆえに、見る者の単純な理解を拒絶する、どこか歪で頑なな作品になってしまったということなのではないだろうか。



(2026年3月31日)

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【関連レビュー】


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