林譲治『地球壮年期の終わり』: 私たちの知らない真相

▷ 書評:林譲治『地球壮年期の終わり』(早川書房)


非常に面白い作品だ。リーダビリティも高い。だが、それだけではない。

林譲治史上、最もシリアスかつ斬新なファーストコンタクト

2034年、激化する水利権紛争への対処のためエジプトに駐留する自衛隊に物資を輸送する紅谷は、カミカゼドローンの襲撃を受ける。彼を救助した全身防護服で身長3メートルのカスケリスと名乗る謎の存在は、地球侵略のため調査活動に従事していると言うのだが。』

Amazonの本書紹介ページより)

本作の初版刊行は、本年(2026年)1月25日だから、当然「イスラエルと米国による、イランへの先制攻撃に端を発する中東戦争」が発生する以前に書かれた作品なのだが、まさに現在の状況を予告したかのような物語である。

本作では、エジプトの管理にかかるスエズ運河をイスラエルが奇襲し占領したことによる「水戦争」が、物語の背景として描かれている。

つまり、現実のイランがエジプト、(封鎖する者の立場が逆転するが)ホルムズ海峡がスエズ運河、石油が水になっているだけで、遠く日本から見れば、似たような地域での似たような紛争だという印象を受けるはずだ。
無論、「水利権戦争」ならば、その地域限定の紛争だと言えるかもしれないが、石油がらみとなると、全世界が巻き込まれることになり、現実の方がタチが悪い。

しかしまた、本作に描かれているのは、今から10年ほど先の「近未来」であり、その世界では、中東に限らずほとんど全世界が不安定化しており、各地で戦争や紛争が発生しているようだから、今の現実と似た状況と言うよりも、今の現実の先にあり得る現実であって、全体として状況は悪化していると言えよう。
だから読者の多くは、「こうなる怖れは十分にあるだろうな」と、そんなふうに感じるのではないだろうか。

しかしながら、本作の魅力は、こうしたSFプロトタイピング的な「未来予測」にあるのではない。以上のようなことは、むしろ本作の「背景」でしかないのだ。

本作の魅力としては、まず、「パレスチナ問題」をベースとした、「差別意識」の問題を扱っている点にあろう。
イスラエル・パレスチナだけの問題ではなく、広く私たちの問題でもあるのだ。

本書を読むすこし前にAmazonカスタマーレビューをちらっと覗いた際、あるレビュアーが本書に否定的な評価を下し、「問題は、作者がすっかりハマス信奉者になっている点だ」みたいなことを書いていた。

ところが、本書を読了してこのレビューを書くために、件のカスタマーレビューを確認しようとしたところ、ハマスという文言のあるレビューが見当たらなくなっていた。
おそらくこれは、何らかの事情により、レビュアー本人が当該部分を削除して、書き換えたものと思われた。

一一まあ、それはともかく、このことからも分かるとおり、著者は「(ガザ)パレスチナ問題」については、明確にパレスチナの側を支持している。

それに対して、そのレビュアーは「林譲治は洗脳されている」みたいなふうに言いたかったようだし、そういうふうに洗脳されている者は、「ガザの人たちが可哀想」といった感情論だけで状況を評価している「現実を見ることができない人たち」だと、そう言いたかったのであろう。
言い換えれば、自分は人間社会や世界政治における「地政学的な現実」が直視できていると、そう自賛したかったのであろう。

だが、その程度のことは、本書著者の林譲治とて百も承知のうえで、それでも全面的にパレスチナの側を支持しているのだ。

つまり、林がパレスチナの側を支持するのは、単なる同情論などではなく、じつは、人類が生き残るためには是非とも必要な、「倫理」の問題だからなのだ。
言い換えれば、イスラエルのやり方を「リアリズム(現実主義)」だと考えるようでは、人類に「未来は無い」と、おおむねそういうことなのである。

したがって林譲治は、単なる「理想主義者」でも「人道主義者」でもなく、先のレビュアーとは違い、「目先の利害」に惑わされない、射程の長い目を持った「リアリスト」だということになるのだ。

強者の側についてさえいれば、なんとなく「個人的にも勝っている気分にもなれて、安心できる」といった、ネトウヨ的にケチな現実逃避家などではないのである。

(言うまでもなく、本作のタイトルは、アーサー・C・クラークを踏まえたものなのだが、あとは衰退するしかない文明という意味において、痛烈な皮肉となっている)

さて、本作には実にユニークな「宇宙人(異星人)」が登場する。
身長が3メートルほどもあり、全身を宇宙服っぽい防護服で覆っている人型生物(ヒューマノイド)で、頭をすっぽりと覆うヘルメットの前面も、鏡面ガラスになっており、その素顔は窺えない。
つまり、その素の姿はよくわからないのだが、外見的には、防護服を着た背の高い人型宇宙人で、そんな宇宙人が、本作の語り手となる一部の人間を選んで接触し、翻訳装置を通して「われわれの調査に協力してほしい」と要請してくるのだが、その話っぷりが飄々としており、ユーモラスで味がある。
またそれでいて、なぜ地球や人類についての調査をするのかと尋ねられると、あっさり「まあ、ひとことで言えば、侵略のためかな」なんて調子で答えるのである。

彼らは、はるかな宇宙空間を旅して地球に飛来した宇宙人らしく、人類よりもはるかに進んだ高度な文明を持っており、武力行使においては、人類を一瞬で殲滅したり、黙らせたりすることが出来るほどのもの持っているのだが、なぜかそれはせず、地球上のあちこちをウロウロと歩いて、地味に人類を調査しているのである。

で、こうした宇宙人が、武力ではない武器としているのが、情報操作なのだ。

身長3メートルの全身防護服を着た宇宙人というは「いかにもウソっぽい」というのを承知の上で、そうした格好をして、時にその姿を人類に目撃「させている」。
そのほうが、ネットなどでは話題になっても、公式にはフェイクニュースとして処理されるからかえって安全だと、そんな計算のもと、わざわざそんな格好で地上をウロウロし、たまにその姿を人間に目撃させたりするのだか、それもこれも人間の反応を見るための、つまりは調査研究の一端なのである。

で、こうしたことからも分かるとおり、本書で描かれる問題の二つ目は、「フェイク情報(情報操作)」の問題であり、「パレスチナ問題」にもつながる私たちの「偏見」の問題なのだ。

一一私たちは、目の前に見えている現実についても、自分に都合のいい偏った情報にすがりつくことで、誤った解釈をして、その実像を歪めて見てしまう。

例えば「ハマスは、許すべからざるテロリスト集団だ」というような見方だ。

しかしこれは、「パレスチナ問題」の歴史を知っていれば、あり得ない「偏見」でしかない。

遊牧民が多かったとは言え、先住民のいるパレスチナの地に、後から植民というかたちで「侵略」してきて、最後はその土地を奪って建国したのが、現「イスラエル」なのだ。

またその意味では、原住民を虐殺し、あるいは狭い居留地に押し込んでその土地を奪った、アメリカにおけるインディアン(アメリカ原住民)に対する侵略の歴史と同質のものとも言えよう。

そんなふうに考えれば、ハマスをテロリストだなどとは、そう簡単には言えないはずだ。

なぜなら、侵略戦争に対する「自衛」と「抵抗(レジスタンス)」は、日本人だって当然のことだと考えているからで、ましてや彼我の戦力に大きな開きのある非対称戦ならば、ゲリラ戦は当然の選択であろう。

なのに、なぜ「ハマスはテロリスト」だなどと簡単に言えてしまうのかといえば、それは「認知戦(情報戦)」における「フェイク情報(情報操作)」によって、すでに多くの人の認知が歪められいるからに他ならない。

つまり本作は、地球人類を観察している、いささか「傍観者的な宇宙人」を一枚噛ませることで、私たちの「日常」が、いかに認知的に歪められているかというのを、見事に描いて見せている。

「認知戦」とか「情報戦」というと、私たちは「戦時のもの」だと思い込みがちだが、そうではない。それは一一日常(平時)からのことなのである。

例えば、現在私たちは、一方でイラン情勢のニュースを見、また一方では「なぜ日本は、WBCで早々に敗れてしまったのか」などという、どうでもいい(戦犯探し的な)結果論のニュースを見せられているのだが、後者を「どうでもいいニュース」だと考える日本人は、かなりの少数派だ。

なぜなのかと言えば、それは私たちが常日頃から、「現実逃避の娯楽は悪くない」「スポーツにおいて自国チーム(またはアスリート個人)を応援するのは良いことだ。それで生きる勇気がもらえるのだから」などといった、「パンとサーカス」のプロパガンダ情報に晒され続けて、すでに洗脳(思考汚染)されているからである。

実際のところ、テレビ放送がなされなかったら、誰もオリンピックだのWBCだの万博などに、これほどの大騒ぎはしないだろう。
つまり、「みんなが熱心に見ているよ(話題にしているよ)」という宣伝が徹底的になされるからこそ「面白そうだ」と興味を惹かれ、その情報に進んで接しているうちに、心から「面白い」と思い込むようにもなる。

そこには、自分個人の嗜好などはほとんどなく、自分の嗜好がわかっている人もほとんどおらず、浴びせかけられる情報に煽られ、ただ「他人の欲望を内面化して欲望する」ことで、安心してその熱狂に身を任せているだけなのである(だから、ファッション的・流行的なのだ)。

まただからこそ、WBCが無料の地上波放送ではなくなることが、「国民」共通の大切な資源を失うことにもなりかねない、などといった議論も出てくる。
みんなが見なければ、そうしたプロパガンダによる幻想が消えて、人々をまとめ上げ動員するといったことが、困難になるからである。

そんなわけで、本作には「プロパガンダ」や「差別偏見」の問題が、特別なものではなく、日常的な「情報」の問題として描かれている。
そうしたものが現に今ここで、私たちの目を眩ませており、いかに人類の未来を危うくしているか、というところまで描かれているのだ。

だが、だからこそ、こうした宇宙人的に客観的な見方は、日常的な「認知戦」の中で、その事実をそうと認知できずに生活している人たちからの反発を招いてもしまう。

なぜなら、そうした人たちは「得たい情報しか得ようとしないし、見たくない情報には目を瞑っている」くせに、それでいて「私はわかっている(見えている)」と、そう無根拠かつ自己満足的に思い込んでいるものだからである。
いや、情報を限定して、視野が狭くなっているからこそ、自身を盲信することにもなってしまうのだ。他者の視点を欠くからこそ、「私は、こうしててもいいの?」という自己懐疑を持てないのである。

そんなわけで本書は、非常にスペキュレイティブ(思弁的)なSFである。
宇宙人のユニークなキャラクターによって、軽い感じで楽しく読んでいるうちに、終盤では「で、あなたはどうなの?」という、重い問題を突きつけてくる。

本作は、そうした点で、見かけによらず、ずっしりとした、社会派的な哲学的小説だと言えるだろう。中身的には、かなり「重い」ものを持った素晴らしい作品だ。

また、言い換えるならば、本作を最後まで読んで、それでも「軽い」と感じたのなら、それば本作が軽いのではなく、本作の重い部分を読み取れなかった、読者の頭の方が軽いのである。

そんなわけで、本作は見かけによらず「面白い」から、ぜひ読めとおすすめしたい。

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ちなみに、ここまでなら、それなりのSF読みでも指摘できるだろうが、私はここでもうひとつ、あまり指摘されないだろう本作の魅力を指摘しておきたい。

それは本作の、「本格ミステリ」的な性格である。

本作における、本格ミステリ的な「謎」とは、次のようなものだ。

「地球を侵略しに来たと言い、簡単にそれを為し得る圧倒的な力を持ちながら、なぜこの宇宙人は、地上をウロウロして人類のことを調査研究するなどといった、迂遠なことをしているのか?」

一一という「動機の謎(ホワイ・ダニット)」である。

この(スカベンジャーと、便宜的に名乗ることになる)宇宙人は、地球に到達する以前、すでに数十の惑星において高度な文明の「痕跡」を見つけてきており、その上で「滅亡寸前とは言え、ひとまずはまだ滅亡していない」文明としての地球人類を、興味深く観察研究している。

だから、普通に考えれば、宇宙人が研究しているのは、「人類がまだ滅びていない理由」か「この先どのようにして滅ぶのか」といったことだと、そう思うだろう。

だが、現に滅亡することもなく、人類文明をはるかに超えたそれをすでに築いている彼らが、いまさら遅れた地球人類の研究して、いったい何の意味があるのだろうか?

だが、だからこそ、本作の終盤で語られる「宇宙人の人類文明研究の動機」は、かなりトリッキーで逆説的なものである。

しかしまた、それでいて「なるほど」と思えるし、そうした宇宙人だからこそ、滅びることもなく高度な文明を築けたのだと、そう気づかされ、そして反省させられるのである。

その謎の解答は、本書P332で、次のように語りだされている。

「僕らが地球にやってきた理由はね、」

一一あとが気になる方は、直接、本書にあたっていただきたい。


(2026年3月29日)

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