▷ 映画評:ウィリアム・ワイラー監督『おしゃれ泥棒』(1966年/アメリカ映画)
アメリカ映画が、まだフランスへの憧れを持っていた頃の、フランスを舞台にした作品だと言えるだろう。
フランス映画のように、妙にわかりづらいところはなく、本作の場合、多少エンタメにすぎる軽さがあるとは言え、フランス的なエスプリを、アメリカらしくまっすぐに表現しようとしているところに好感の持てる作品である。

本作の主演は、イギリス人女優であるオードリー・ヘプバーンで、監督は、アメリカ映画界を代表するウィリアム・ワイラー。
この二人は、不朽の名作『ローマの休日』を撮ったコンビである。
しかしながら、ウィリアム・ワイラーはじつのところ、ドイツの出身だから、その意味では、『ローマの休日』や本作に流れているのは、やはり西欧の血だと言えるのかもしれない。
そこへ、アメリカの観客への配慮が働いた作品だと、そう考えるべきなのであろう。


それが良いことか否かは別にして、アメリカ映画がアメリカ映画らしくなったのは、そんなに昔の話ではないし、今だって、どんどん諸外国から優秀な血を輸血しているのが、ハリウッドのハリウッドたる多国籍主義だとも言えるのであろう。
ちなみに、もう一人の主演俳優は、『アラビアのロレンス』で有名なピーター・オトゥールで、彼もアイルランドの俳優である。

そんなわけで、今の目から見れば、本作がアメリカ映画らしくないというのも、故なきことではないのだ。
ちなみに、本作中で、ヘプバーンがベットで読んでいる本は、裏表紙に大きくヒッチコックの顔写真が刷られたおり、ヒッチコックの評伝か何かのようであったが、言うまでもなく、ヒッチコックもまたイギリス人なのである。
なお、本作の「あらすじ」は、次のとおり。
『シャルル・ボネ(※ ヒュー・グリフィス)は美術品収集家として知られているが、実はすご腕の贋作画家で、自分で制作した偽の美術作品を競売にかけていた。
一人娘のニコル(※ オードリー・ヘプバーン)は、父親がいつか捕まるのではないかと気が気でない。何度も贋作作りをやめるよう説得するが、シャルルは一向に筆を折る気配は無い。
シャルルのコレクションに疑問を抱いた美術商のソルネ(※ シャルル・ボワイエ)は、美術鑑定のエキスパートである探偵のデルモット(※ ピーター・オトゥール)に調査を依頼する。
デルモットはある夜(※ 贋作作りの証拠をつかもうと)シャルルの家に潜入するが、ニコルにあっさりと見つかってしまう。
とっさにデルモットは自分は泥棒だと嘘をつき、彼の素性を信じこんだニコルは、父が美術館に出展した贋作の「チェリーニのヴィーナス像」を盗み出すことを依頼する。美術館側が、ヴィーナス像を科学鑑定にかけると言い出したからだ。
ニコルに一目ぼれしてしまったデルモットは、ヴィーナス像を盗み出すために知恵を絞りだすが…。』
(Wikipedia「おしゃれ泥棒」・適宜改行を加え、(※)で補足した)


私は、この映画のことをくわしくは知らなかった。
もしかすると、子供の頃にテレビで見ているかもしれないが、そんな記憶はまったく無い。
そこで、タイトルが『おしゃれ泥棒』というからには、主演のヘプバーンが「おしゃれな怪盗」なのだと思い込んでいた。
言うならば、日本の漫画『キャッツ・アイ』の祖型的な作品だと思い込んでいたのだが、そうではなかったのだ。
私が、今回見たDVDの表紙も、ヘプバーンが顔の上半分をヴェールっぽいもので隠しているだったので、言うなればこれが「仮面」なのだと思ったのだ。
だが、そうではなく、これはヘプバーン演じるところのニコルが、お忍びでオトゥール演じるところのデルモットに「チェリーニのヴィーナス像」の盗みを依頼しに出かけた際の服装なのであった。

本作は、ハッキリと「ロマンティック・コメディ」であって、特に凝った内容の作品ではない。
2時間楽しく見たらそれでおしまいの作品であって、『ローマの休日』と比較するような作品ではないと、そう断じても良いだろう。

だが、ヘプバーンとワイラーの映画が、ぜんぶ『ローマの休日』のような作品であるわけもなければ、その必要もないだろう。
本作は本作で、軽い気持ちで楽しみ「面白かったね」と言って、すぐに忘れてしまう作品で良かったのだと思う。



本作で私が気に入ったのは、ヘプバーンのファッションもさることながら、登場する車選びのセンスである。
私は車のことは詳しくないのだが、しかし、冒頭にヘプバーンが乗って登場する真っ赤な「アウトビアンキ ビアンキーナ カブリオレ(エデンロック)」は、まるでおもちゃのようにも見える小型車で、ヘプバーンの可愛らしさとおしゃれさを、よく表現している。


また、そのあと、オトゥールの乗る車「ジャガー・Eタイプ」がまた、前述の小型車とは好対照な、大型かつスタイリッシュなスポーツカーというところが、バランスとしても良く、またそれを、ヘプバーンのニコルが乱暴な運転をするというところが、実に微笑ましい描写となっている。

あと、私が個人的に気に入ったのは、上の「あらすじ」紹介には出てこない、富豪のアメリカ人美術コレクター、リーランド(イーライ・ウォラック)である。
彼は、美術館に展示された「チェリーニのヴィーナス像」に一目惚れして、これをなんとしてでも手に入れたいと、ニコルの父シャルルに接近を試みる。
だが、その時すでに、ヴィーナス像に科学検査の危機が迫っており、それを盗む計画を進めていたニコルは、リーランドが自分に一目惚れしたのだと勘違いし、それでまたリーランドの方も「それも悪くないな」とニコルに婚約を申し込み、ニコルの方も「急いでたので」それを受けるコミカルな展開になるのだが、結局のところ最後は、デルモットが、盗み出したヴィーナス像をリーランドにくれてやることにする。
それで、ニコルとの婚約を解消すると同時に、リーランドは盗品だと分かっていながら、それを所蔵したがっているのだから、そうなれば、ヴィーナス像は二度と世に出ることはなく、贋作であることがバレることもなくなる、という一石二鳥だったからである。

それで私がこのリーランドを気に入ったのは、彼はデルモットから、ニコルを取るかヴィーナス像を取るかと言われて「それはもともと、ヴィーナス像が欲しくてボネさんに近づいたのだから、ニコルさんのことは、せっかくですが諦めましょう」と、あっさりヘプバーンを捨ててしまうところである。
要は「見上げたコレクター魂」だと感心したのだ。その変人ぶりの徹底性が、私の好みだったのである。
当たり前のコレクターなら、もちろんヴィーナス像も欲しいけど、ヘプバーンを選ぶだろう。だが、彼はそうではなかった。
「いずれ老いる美女などより、俺は永遠に可愛い二次元美少女を選ぶ!」と本気で言う、決して現実に日和らない、徹底的なオタクみたいなところが好ましい。
もちろん、「盗品であっても欲しい」というのは、真っ当な倫理観からは外れるものではあるものの、昔からよく言われたことで、一流のコレクションというのは、それくらいでないと蒐められない、というのも事実。
コレクションの世界は百鬼夜行の世界であり、ただそこにもささやかな救いがあるとすれば、そうしたコレクションというのは、投機などのケチな金儲け目的ではなく、純粋な美的趣味である点だ。
日本では洲之内徹の、
「買えなければ盗んででも自分のものにしたくなるような絵なら、間違いなくいい絵である」
という言葉が有名だし、これは「盗んで良い」と言っているわけではないけれど、例えば、大英博物館の展示品は少なからず盗品だという事実を見ても、徹底的な(一流の)コレクションというのは、そもそも真っ当な神経の持ち主なら、決してやらないことなのだ。
だから、こうした損得打算抜きの「コレクターの狂気」というものは、建前の綺麗事では否定しきれないものなのである。
そしてそうした点で、本作に描かれるリーランドは、言うなれば「コレクターの鑑」とも呼ぶべき人物であり、その点において、私は彼の「純粋さ」に好感が持てたのだ。
「オードリー・ヘプバーンを捨ててでも、自分のものにしたいほどの彫像なら、それは(仮に贋作であっても、そのコレクターにとっては)本物である」
と、そう言っても良いのではないかと思う。

そもそも、贋作師であるシャルル・ボネは、オリジナルだから価値があり、模造品だから価値が無いというのはおかしいと、そう主張するのだが、それはまったくそのとおりであろう。
現実の美術館においても、贋作容疑のある作品がたくさん並べられているという事実は、要は、もはや人間の目では、それが本物か偽物かの真贋の区別などつかないということである。
ならば、それは「物としては同価値」だと考えるべきで、では何が違うのかと言えば、それは「ブランド」の違いにすぎない。「著作権」の問題にすぎないのだ。
まったく同じ作品を描いても、有名作家が描けば1億円で、無名作家が描けば1万円にもならないというのは、そういうことなのである。
それなのに、権威筋による「本物」だという保証がついていれば「さすがは本物。やっぱり違う」などと言っているような美術愛好家は、プロアマを問わず、頭の悪い勘違い野郎にすぎないと、そういうことにもなるのだ。
つまり、そんな輩には、複製品で十分なのだ。
どうせ、見る目もなければ、区別もつかないのだから、わざわざ「豚に真珠」を与えてやる価値などないのである。
本作で、贋作師のボネが、ゴッホの未発見作品の贋作を描き、それを娘のニコルに批判されて、「どうして贋作じゃダメなんだ。どうせ区別もつかないし、生前のゴッホはろくに絵の売れない貧乏画家だったんだぞ」みたいなことを言っていたはずだが、ここで批判されているのは、たぶん贋作の方ではなく、真贋の区別もつかないくせに、ブランドに馬鹿みたいな価値をおく、アキメクラたちの方だろう。
だからこそ、この作品では、わざわざゴッホの作品を取り上げたのだろうし、物語のラストで、娘の婿となるデルモットに「贋作師の引退」を約束させられたボネが、結局は辞めないことを暗示して終わるのも、本作が密かに「本物信仰」を批判した作品だったからではないだろうか。

なぜなら、「映画」というのは、そもそも極めて「偽物」性の強い芸術表現であり、しかしまた「それでもいいじゃないか。面白ければ」と、そんな性格を持ったものなのである。
例えば、その象徴が「モンタージュ」という「トリック表現」であろう。
ウィリアム・ワイラー監督は、そうしたことをよく承知していたからこそ、贋作師をまるっきりの悪者とは描かない、本作のような物語を撮ったのではないだろうか。
例えば、『ローマの休日』の、アン王女と新聞記者ジョーとの「1日だけの恋」なんてものは、作りごとの偽物にすぎない。
それでも「美しければ、いいじゃないか」ということではないだろうか。
よく言われるように「フィクションでしか語れない真実がある」のだし、言い換えれば、「本物が真実を語っているとは限らない」のである。

(2026年9月22日)
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