韓松 『悪夢航路』: 悪夢の暗黒未来史

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▷ 書評:韓松『悪夢航路』(早川書房)


『三体』の劉慈欣らとともに「中国SF四天王」の一人と称される韓松の代表作である〈医院〉シリーズ三部作。
その第2作が、本作『悪夢航路』(原題『駆悪』)である。


前作の『無限病院』も、まあたいがい狂っていて重くてしんどい作品だったのだが、本作も決してそれに劣ってはいない。

『無限病院』にはかなり手こずったし、率直に言って、いわゆる「面白い」というような作品ではなかった。
とにかく暗くて重くてグロテスクで、訳のわからない作品だったのだ。
今どき、こんな読みにくいエンタメ小説があるのかと、かなり驚かされもした。


しかし、SF小説だからエンタメだと、そう思い込んでいたのが間違いなのだろう。

『無限病院』を読んだ時には、まだ確信が持てなかったものの、第2作である本作『悪夢航路』を読んで、これはもうエンタメではなく、「文学」作品だと確信した。

韓松は、単純に読者を楽しませようとはしていないのだ。
「この悪夢のような世界を味わえ。そして、その意味するところを考えてごらんなさい」と、そんな気持ちで書いている作品なのである。

したがって、本作が、そしてこの三部作が、「SF」だと呼ばれるのは、道具立てがSFだからというだけのことであって、決してエンタメというわけではないのである。

したがって、娯楽作品を期待するSFファンは、この三部作を読まない方が良い。読んだところで、楽しめるわけもない。
この三部作は、劉慈欣の『三体』のように、わかりやすく「SF」してもいなければ、ましてや「エンタメ」などではないのだ。

たしかに「未来科学」的なものは登場する。
だが、それは技術者出身の劉慈欣が書くような「科学」ではない。
韓松のこの三部作は、科学的な知に信頼を寄せる劉慈欣の描き出す科学ではなく、科学の暗い面にこそ注目してしまう、そんな韓松にとっての「科学」なのだ。
だからこそ、暗くて幻想的なのである。

したがって、この〈医院〉三部作は、SFはSFでも、言うなれば「幻想SF」である。
コアなSF、いわゆるハードSF的な作品ではなく、SF要素の含まれた「幻想小説」だ、そうと考えた方が間違いがない。
だから、いわゆるSFファンよりも、むしろ幻想小説ファン向きなのかも知れない。

私が『無限病院』に懲りて「もう続きは読まないだろうな」とそう思っていたにも関わらず、結局、続編の本作『悪夢航路』を読んでしまったのも、そして、翻訳が刊行されるかぎりは、3作目の『亡霊』(原題)を読むだろうことも、結局、わたし的には、「幻想小説」に、わかりやすさを求めてはいないからなのかも知れない。


つまり、『無限病院』を読んでみて最終的に感じたのは、この作品は、ジャンルとしては、たしかに「SF」ということになるだろうけれど、本質的には「SF」ではなく「幻想文学」に近いのではないか、ということだったのであろう。だから、続編も読む気にもなった。

では、「SF」と「幻想文学」はどう違うのか言えば、「SF」というのは、もともと「幻想文学」から派生した、近代科学主義的な下位ジャンルだったのであり、「幻想文学」の中では、最も科学的で、その意味で近代的。つまり、合理的な人間理性に最も信頼を寄せ、それに夢を託した「不思議小説」だったのだ。

そしてその意味では、「SF」と同時期に「幻想文学」から巣立っていった双子の兄弟に「ミステリ(推理小説・探偵小説)」があると、そう考えても良いだろう。
「ミステリ」もまた、「SF」と同様に「近代合理主義」を体現した新しい文学形式だったのであり、ただ「SF」のような「未来」思考ではなく、むしろ「過去の迷妄を払う」という方向性であったと、そういうことなのではないだろうか。つまり、「ミステリ」における謎解き趣味とは、「反神秘主義としての近代主義」だったのである。

ともあれ、極めて幅広い範囲を押さえていた「想像力の文学=反リアリズム文学」たる「幻想文学」から、近代主義の精神を体現する、双子の兄弟が巣立っていった結果、「幻想文学」は、おのずと「近代的合理性では描ききれないもの」を中心に描く文学ジャンルということになっていったのである。

したがって、「幻想文学」たる韓松の〈医院〉三部作は、「未来科学的な道具立て」こそ登場するものの、しかし、おのずとそれは、合理的に説明しきれるようなものとしては描かれていない、ということになる。
韓松の興味は、そうした人間理性の明るい可能性やそれへの信頼よりも、むしろその限界の方に重点が置かれており、だから暗いのだと、そう言えるのではないか。

他の作品は読んでないので詳しくは知らないが、しかし韓松の作品も、すべてが暗くて晦渋なものばかりだというわけではないようだ。

しかし、それはそうだろう。
韓松とて、SFファンとしていろんな作品を読み、魅了されてきた人なのだから、暗い作品ばかりではなく、そんな明るい作品も書いてみたいと、当然そのようにも思ったはずだからである。

ただし、韓松が暗い作品を書く、固有な理由が、たしかにある。

まずひとつは、彼が中国を代表する通信社「新華社通信」の記者であること。
そして彼が、若くして認知症(アルツハイマー病)を発症して、徐々に記憶障害に苦しめられるようになったという事実である。

まず、彼が「新華社通信の記者」だという点だが、これが意味するのは、彼が「共産主義国家の御用報道機関の記者」だということである。
要は、社会や政治の裏側をよく知っていながら、それをそのまま書くことができない職業に就いており、間違いなく倫理的ジレンマに囚われていた人だということである。

だから、その反動が、彼の小説では「SFという意匠」の下に隠されて表現されるため、当然それは、暗くて重い告発的なものにもなるのであろうということだ。

次に、「若年性認知症による記憶障害」の問題。
もともと彼は、新華社通信の記者になるくらいの知的エリートなのだから、その知性が損なわれていく恐怖というのは、想像に余りあるものがあろう。
だが彼は、そんな恐怖と闘いながら、本作を書いたのだから、作品の色合いが暗く重いものになるのも、いわば当然なのであろう。

韓松の、認知症の発症がいつ頃からかということは、公には定かではないらしい。
それは、本人がそれに気づくまでに、それなりに時間がかかっているだろうし、本人が気づいて医師に診てもらい、診断が下りたのは、発症のかなり後だろうからで、しかも、本人がそのことをすぐに公にしたわけでもない。
だから、本書『悪夢航路』の英訳者であるマイケル・ベリーが、韓松のSNSの記述から推定しているのは、本作『悪夢航路』執筆の頃には、すでに発覚していただろうということである。

だから、『無限病院』も暗いのは暗かったけれども、第2作である本作『悪夢航路』には、また別の暗さの要因である「記憶」の問題があり、それに由来するアイデンティティの問題も色濃く表れている。

もともと、『無限病院』でも、そうとう異様な世界が描かれていたけれども、『悪夢航路』では、その異様な世界における主人公・楊偉(ヤン・ウェイ)の揺らぐアイデンティティの問題が前面化してくるのである。
一一「私は何者なのか?」と。

本作の「あらすじ」については、本書の解説者である鯨井久志による、前作『無限病院』と合わせての紹介文が簡明なので、それをここでは引用しておこう。

『 まずは本作「悪夢航路』のあらすじを説明しておこう。
 前作『無限病院』では、「生命」が最重要視され、各種グローバル企業と医療が手を結び、市全体が病院と化してしまった世界が描かれた。そこにおいては、生命の管理者たる医師が絶対的な存在として君臨し、その「死」について話すことすらタブーとされる。そして、個人のアイデンティティは病気であることと結びつく。つまり、あらゆる人間は病んでおり、治療の対象であり、よって世界は文字通り、それ自体が巨大な病院と化していた。
 本作(※ 『悪夢航路』)の舞台となるのは〝病院船〟である。前作と同じく、主人公を務める楊衛は、目が覚めると病室にいた。四十代だったはずの彼は、いつのまにか老人の姿になっており、周りにいるのも老年男性の病人ばかり。患者たちは『病院工学の原理』なる教本を聖典のように祟め奉り、それに従って奇妙な儀礼が行われている。病室は〝超患者〟なる人物に仕切られており、彼のもとで処方薬や食事の分配などが強権的に行われている。どうやらこの〝病院船〟の中枢には、巨大な人工知能である「司命」が君臨しており、『病院工学の原理』もその思想を反映したものらしい。楊偉は他の患者たちとともに、「医療ツーリズム」と称される船内ツアーに出かけ、病院船の謎に迫っていく。そもそも、ここはどこなのか? なぜ楊偉は突然老化してしまったのか? 船だとして、この船はいったいどこへ向かっているのか? 数多の悪夢的ヴィジョンに彩られながら、楊偉はある核心へと辿り着くのだが‥‥‥。』(P463〜464)


前作『無限病院』では、都市そのものが巨大病院化しており、そこに囚われた四十代の主人公・楊偉の苦闘が描かれ、そのラストでは、ついに病院を脱出し、「赤い海」にたどり着いたところで、物語は終わっている。


一方、本作『悪夢航路』では、楊偉が病室で目を覚ますところから始まる。
しかし、病室のメンバーがすっかり入れ替わっており、しかも老人ばかりになっているのに驚かされる。
それだけではない。自分自身も、いつの間にか六十代の老人になっていることに気づくことになるのだ。
一一これは、いったいどうしたことなのか? 何が起こったのか?

やがて、彼のいる病室は、かつて彼が収容されていた謎の巨大病院ではなく、ひとつの街のごとき巨大さの「病院船」の中の、老人病棟の一室だと判明することになる。

つまり、前作のラストと本作の冒頭の間には「記憶の断絶」があり、その間に楊偉は、20 も歳をとっており、知らない病院船に収容されていた、ということなのだ。

そして本作『悪夢航路』の終盤では、どうやら、この病院船の巨大船団は、何者かと「医療戦争」というものを戦っているという事実や、火星には巨大な病院世界が築かれているということを知らされることにもなって、どうやら第3作の舞台は、火星へと移行するようなのだ。

つまり、どうやらこの三部作は、楊偉の視点から「悪夢的な医療の未来史」を描いた作品のようなのだ。
時間的・場所的に、かなり広い範囲を描いているために、時間的・場所的な「飛躍」が設定されているようなのである。

だが、本作の特異なところは、通常のそうした作品のように、「そこで私は5年間を過ごすことになった」というようなかたちで時間の連続性を担保するではなく、『無限病院』のラストから『悪夢航路』の冒頭への飛躍のように、時間的・場所的な断絶を描いている点にあろう。

これはたぶん、そこに作者の「記憶とアイデンティティ」にかかわる、リアルな不安や怖れが反映されているのであり、それと同時に、この作品世界の「不確かさ」あるいは「寄るべなさ」を強調することにもなって、それが、本作特有の「悪夢性」を生んでいるのではないだろうか。

悪夢というものは、その内容が恐ろしかったり不快だったりするだけではなく、合理的なつながりを欠きながら、しかし、ある「不快さ」において一貫している、といったところがある。
その意味では、そもそも、合理的でわかりやすい「悪夢」なんてものの方が珍しいのだ。

したがって、本作『悪夢航路』のラストと次作の冒頭の間にも、おそらく、ある種の断絶と飛躍があるのではないかと、私はそう見ているのである。

もっもと、本作『悪夢航路』において、三部作の基本的なところが「悪夢的な医療の未来史」だというのが、半ば示されてはいるものの、しかし、英訳版翻訳者マーク・ベリーによれば、この三部作で描かれる「医療の未来史」というのは、文字どおりのそれではなく、「医療史」というかたちを借りて描かれた「現代中国史」だと、そう考えるべきもののようだ。

つまり、現代中国の政治・文化・社会に詳しい人がこの三部作を読めば、そこに描かれた奇妙なあれこれが、現実のあれこれのパロディであり風刺であることがわかるようになっているようなのである。

だが、そのあたりの専門知識を持たない私のような「非中国人の一般読者」には、なかなかそこまでは読み取れない。

しかしまた、そんな私が思うには、そうした「元ネタ」がわかるに越したことはないにしても、しかし、それがわからなくても、「作者の語らんとしたところ」は、なんとなくわかるというのが、文学の文学ところなのではないか、ということだ。

本作の翻訳者でもなければ、ましてや中国研究者でもない私たち外国人読者が本書を読むことにも意味があるのだとしたら、そうした「元ネタ」を超えて表現された、普遍的な、人間的あるいは人間社会的な部分を味わうことなのではないか。
言い換えれば、それが出来ないような、普遍性を欠いた作品では、翻訳で読む意味もないのである。

だが、三部作のうちの2作を読んだ段階で私が思うのは、この三部作は、現代中国人ではなくても、楽しめる作品だということである。

たとえ、この三部作に、現代中国の「悪夢性」が描かれていたとしても、しかしそれは、何ももっぱら中国だけに止まるものではないはずだからだ。

例えば、中国の政治社会的な問題を描くのに、どうして韓松は「医療」の問題を選んだのだろう。

それはたぶん、「医療」というものが、ミシェル・フーコー言うところの「生権力」というものと、密接に関わるものだからではないだろうか。

つまり、人の生き死にを管理するというのは、極めて権力的なものであり、否応なく政治と関わらざるを得ないものであって、それは何も、中国に限った話ではないからである。

例えば、2025年9月3日、習近平とプーチンが、「抗日戦争勝利80周年」の記念式典での軍事パレードの開始前、北朝鮮の金正恩総書記も交えて並んで歩いていた際、次のような会話をしていたと報じられた。

習近平「昔は70歳まで生きる人はめったにいなかったが、最近では70歳なんてまだ子ども(鼻垂れ小僧)のようなものだ」

プーチン「バイオテクノロジーの発展によって、人間の臓器は継続的に移植できるようになる。人はますます若返り、不老不死(永遠の命)さえも実現できる」

習近平「今世紀中に、人間は150歳まで生きられるようになるという予測もある」


これなどはまさに、政治権力と医療の進歩が結びついたところでの「悪夢」と言えよう。
彼らのような独裁者は、我がこととして、このように語っているのである。

しかしながら、こうしたことだけではなく、「生権力」とは、なによりも私たち一般庶民を管理し利用するためにこそ、使われるものなのだ。
その典型的なものが、先進国における「少子化対策」で、あれは何も「子供がいない社会は寂しい」とかそういう話ではなく、子供がいないと働き手がいなくなって、国力が減退するという、じつにわかりやすい政治向きの話なのである。

したがって、本作『悪夢航路』の描く「老人男性ばかりの病院船」という描写には、マーク・ベリーも指定しているように、「女性と子供」のいない世界の「悪夢性」が、中国の現実を誇張するかたちで描かれていると、そう考えることができる。

「ジェンダー平等」の問題については、日本もたいがい、先進国の世界水準から遅れをとっているのだが、中国は、そんな日本よりもずっと遅れた、後進国なのである。
だから、「少子化問題」だけではなく「女性を蔑ろにした世界」の末路という意味も、「老人男性ばかりの病院船」という描写には、風刺的なものとして含まれているはずなのだ。

ともあれ、韓松の〈医院〉三部作で描かれている「未来的な悪夢世界」は、中国に限られた話ではないのであり、同時に、医療に限られた話ではない、ということにもなる。

医療は、私たちの未来の社会像と密接に関わっており、それは遺伝子操作やコピー人間などといった問題にわかりやすく象徴されるとおり、ディストピア的な悪夢に直結したものなのだ。

だから、この三部作を読んで私たちがそこに見出すのは、私たちの未来社会の「悪夢」なのである。

こうなってはならないけれど、そうなりかねないという、そんな怖れを覚える未来図なのだ。

当然、そんな未来図は、笑えるものではなく、エンタメでもあり得ないのである。


(2026年9月21日)


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