▷ 書評:亜月ねね『みいちゃんと山田さん』(全7巻・講談社)
知的遅滞者の女性が、それゆえに社会にうまく適応できず、やむなく夜職へと落ち、体を売るようになり、最後は殺されてしまう、そんな悲劇を描いた物語である。
マンガの絵面的には小学生にさえ見える、知的遅滞者の女性主人公(21歳)が「みいちゃん」であり、同じキャバクラで働く、漫画家になる夢を持ちながらその夢に踏み出せないというモラトリアムの中で、ひとまずキャバ嬢をやっているのが、同い年の通称「山田さん」で、彼女は言うなれば、みいちゃんを描くための視点人物だと言って良いだろう。


この山田さんと、みいちゃんの親友である「ムウちゃん」母娘以外の主たる登場人物は、とにかく酷い人物が多い。
もちろん、真っ当な人物もいるにはいるけれど、彼(女)らとて、聖人君子ではなく、「障害者の力になってはあげたいけれど、そこまではつきあいきれない」という本音を覗かせる。
だからこそ、みいちゃんは最後まで救われることなく、悲惨な最期を遂げるのだ。

(みいちゃんは人に馬鹿にされて育ったために、善意の注意も受け入れることができず、攻撃として受け止めてしまう)

(善意で接しても、配慮ということのできないみいちゃんは、結果として人を遠ざけてまう)
だが、この物語の狙いは、明らかに「現実を描くこと」だ。
それも「理想的な現実」や「比較的マシな現実」ではなく、「悲惨な現実」を描くところにある。
普通はそうだというようなレベルの話ではなく、それが「普通」ではないけれど、それでも、こんな現実などいくらでも転がっているというような、そんな過酷な現実だ。要は「汚らしい現実」である。
作者はそれを、「鈍感な読者」を告発するかのように、意図的に描いている。
○ ○ ○
本作は大ヒットし、そのアニメ化が決まったと報じられたところで、ちょっと待てという意見が出てきて、アニメ化の実現が微妙なところとなっているらしい。
それで、ネット上では、賛否両論の喧しい議論となった。
そしてそれが、私の耳にまで届き、「いったい、どんな作品なのだろう?」と、そんな軽い気持ちで私も本作を読んでみたのである。

まず、マンガ作品としての評価からすれば、本作は「まずまずの出来」程度の作品であり、この作品の力は、もっぱら「現実に裏づけられた悲惨さ」を描いている点にあろう。
超能力を使うとか、正義は必ず勝つというような、フィクション特有の「嘘」の力ではなく、有無を言わさぬ「現実」特有の特別な「力」が、本作にはある。
「他人の不幸は蜜の味」と言うとおりで、他人の悲劇を、人は楽しむ(喜ぶ)ものなのだ。それが、本作でも描かれている、一つの「現実」だ。
しかも、しばしばその自覚も無しに、という「現実」である。
無論、それだけではない。
そうした楽しみの中には、「可哀想に」といった同情や、みいちゃんを搾取する男女に対する義憤などもあるだろう。また、本作を通して「こうした現実のあることを学ぶ」人も少なくないだろう。
だが、それらを含めて、人はそれを「娯楽として消費する」のだ。
一一そこだけは、決して誤魔化してはならない。
たとえば、「可哀想だと思った」「こんなことは許されないと思った」「現実の一端を垣間見た」などと言っても、では、そういう人が、知的障害者団体に千円の寄付でもするのか、本作からさらに関連するノンフィクションの1冊でも読んで、さらに勉強をするのかと言えば、まあ、本作を絶賛するファンの99パーセントは、決してそんなことはしないだろう。
単に、次の「面白そうなマンガ」を読むだけに決まっている。
また、この作品が、ノンフィクション的な作品としてリアルに描かれていたなら、そんな「汚らしい現実」を喜んで見る(読む)人はほとんどいまい。
要は、この原作マンガだって、「可愛い二次元キャラ」で描かれているから読むのであって、最終巻で描かれているような「リアル」で「可愛くもない」顔に描かれたら、本作は100パーセント売れなかっただろうし、ときに嘲笑さえされただろう。
「あんなもん、読むやつがいると思うの? 作者、バカじゃね?」といった調子でだ。


つまり、実写化されて、アイドルのように綺麗で可愛い俳優が演じたら、原作がヒットしているだけに、それを見に行く人もあるだろう。
だが、ノンフィクション的に、一般人の中では「比較的可愛い」程度の人がみいちゃんを演じても、誰もそんな映画など見に行かないし、無論ノンフィクション映画なら、よほど意識の高い人しか見に行きはしないはずだ。
当然、そんなウザいノンフィクション映画であったならば、「可哀想だと思った」「こんなことは許されないと思った」「現実の一端を垣間見た」というような、お優しい感想を持つための積極的な機会など持とうとはしないまま、そこで描かれた現実について、知ったかぶりに「そんなこともあるでしょうね。でも、映画でまで見たいとは思わない」と、そう言うのが関の山なのではないのか?
そもそも、本作は実写映画の内容としてなら、さして珍しいものではない。
アニメ化に反対している障害者団体などが指摘しているとおりで、本作は「可愛い絵で描かれているから」読者を惹きつけ、同情を買い、消費されているだけだというのは、ほとんど事実そのものなのだ。
みいちゃんが、その名のとおり「可愛い子猫」のように描かれており、その子猫のようなみいちゃんが、虐げられ搾取されているからこそ、多くの読者は「可哀想」だと思うだけで、吠えかかる小憎らしい犬にも等しいキャラクターが虐待されていたなら、むしろ小気味良いとさえ思うはずなのだ。
そもそも、勧善懲悪のスカッとしたエンタメ作品などは、おおむねそうしたものであったはずだ。
要は、単に本作が「面白かった」だけなのである。
その「面白さ」の中身をあれこれ「綺麗事」で粉飾して語ってみせたところで、所詮は「娯楽作品として消費した」という身も蓋もない事実は、否定しがたいものなのだ。
そして、作者が作中で語っているとおり、所詮、本作の読者の大半は、作中で批判されているキャバクラや風俗店の客と大差ない、「可哀想な人」たちを憐れむことで優越感を感じている、資本主義的な「搾取者」にすぎないのである。

差別され虐げられた人たちを助けるために、指一本動かす気もない者が、何が、「可哀想だと思った」「こんなことは許されないと思った」「現実の一端を垣間見た」だ。
そんなもんは全部、お前らを含んだ上での現実ではないかと、そういうことなのである。
だから、アニメ化にあたって、障害者団体などからクレームがつくのも当然であろう。
彼(女)らは「公共の利益」ではなく、「障害者の人権」を最優先する立場なのだから、本作のような作品がアニメ化され、誰でも見られるようなところに出てくれば、偏見が助長され、障害者が更なる被害を被るだろうと、そう考えるのは、むしろ当然のことである。

そのアニメを見て、「可哀想だと思った」「こんなことは許されないと思った」「現実の一端を垣間見た」という人がいくらかなりとも出て、障害者への偏見が多少減ったところで、そんなものは全体のごくごく一部でしかなく、全体として「話題の衝撃作として、消費するだけ」だというのは、あまりにも目に見えている。
つまり、アニメ化によるプラス面よりもマイナス面の方が大きいというのは目に見えた話なのだから、それに障害者団体などが反対するのは、当然のことなのだ。
だからその意味では、安易に本作のアニメ化を肯定する人たちを、私は支持できない。
そうした人たちが「なんでもいいんです。楽しめる作品だからアニメ化して欲しいだけなんです」と、実名で正直に言うのならまだしも、あれこれの「社会的意義」や「公共の利益」を口実にしてアニメ化を支持するのなら、そんな人は、本作の中に出てくる、みいちゃんを食い物にする偽善者と、何ら変わりはしないからである。
しかしそれは、本作の作者・亜月ねねにしても講談社にしても、アニメ制作会社にしても同じことだ。
まず、自分たちは「金儲け」のためにそれをするのだ、しているのだという事実は認めなければならない。

じつのところ、本作に嫌悪を感じたり、アニメ化に反対するの多く人は、「差別の助長」への危惧もさることながら、「人の不幸」を金儲けの道具にして、まんまと儲けているという事実に、反発と嫌悪を感じているに違いないからである。
だから、「たしかに私は、金儲けのために描いている(作っている)」という事実は、「わかりきったこと」だとしても、改めてハッキリと認めておく必要があるだろう。
それを、綺麗事の建前だけで済まそう(誤魔化そう)とするから、「嘘をつくな。本音は別にあるだろうが」ということにしからならないのである。
だから、原作マンガであれアニメ化作品であれ、それらは資本主義経済の中で「商品」として、金儲けのために作られるのだという大前提は誤魔化すべきではない。
その上で「弊害はあっても、積極的な価値もあるはずだ」という線で、その積極的な意図を語るべきであろう。
弊害をゼロには出来ず、必然的に犠牲者を出し、ある意味、他人の不幸を食い物にして作るのだけれど、しかしそれがこの資本主義社会の宿命でもあるのであれば、その前提の上で、多少なりとも「意義のある、褒めてもらえる作品を作りたい」と、そう訴えるしかないし、また、それで良いと思う。
なぜなら、それしかできないからだ。
多少は、他人を犠牲にし、資本主義に魂を売ってでも商品を作り、それを売らなければならないという現実は、誰しも免れ得ない現実だからである。
障害者団体のように、特定の人の権利を守るために活動をしている人たちに対し、全体の利益を考えろというのは、基本的に筋違いである。それは、彼(女)ら仕事ではないからだ。

しかしながら、それが特定の人のための活動でしかないのであれば、それが社会全体に対して、完璧に(例外なく)適用されないのもまた、理の当然だ。
なぜなら、現実社会には、さまざまな価値観やそれを代表し代弁する組織や個人が存在しているのだから、あるひとつの組織・集団の意見や意志が、全面的に通るというのは、原理的にあり得ないし、あってはならない。
そうした「部分的な正義」がなされるためには、必ず別の「部分的な正義」としての価値観が、多少なりとも犠牲にならざるを得ないからだ。
したがって、現実には、そうした多様な価値観のバランスをとりながらやっていくしかない。
ある主張が「100パーセント正しく、弊害はゼロだ」なんてことは、あり得ないからである。
したがって本作を、完全に「バランスの取れた作品」だとか「問題のない作品」だとか「政治的に正しい作品」へと修正し得る、などということはあり得ない。
本作の価値は、すでに書いたとおりで、「汚い現実を剥きつけに突きつける」ところにあるのだから、そこで描かれる登場人物も、誇張され、歪められていて、当然なのだ。
本作は、そんな醜くも歪んだ現実を突きつけるために描かれた作品であり、かつ、それで金儲けをするための作品なのだ。
「醜い現実を突きつける作品」として「力のある作品」なのであれば、それに弊害があるのは当然である。
この作品は、そうした「劇薬」として描かれているのだから、プラスだけでも、マイナスだけでもなく、その両方のある作品であるというのを大前提として、マイナス面としての犠牲を出してでも、プラス面を生み出したいという作品でしかあり得ない。
どんなに頑張ってところで、本作を「無害化」するならば、それは本作ではないのである。

だから、本作をアニメ化するのなら、専門家の助言など仰ぐ必要はなく、このままアニメ化すれば良い。
専門的に間違った表現があったとしても、それが誤解を招くことがあったとしても、それはそれを含めて本作なのだし、そもそもフィクションとは、創作物とは、そう「非現実を含む」ものなのだ。
たとえば、人物彫像を作るとき、リアルな筋肉のつき方でなければならない、ということにはならない。
リアル指向の作品もあれば、そうではない作品もあって良いのだから、現実にはあり得ない筋肉表現でも、作者がそれを美しいと思うのなら、そう表現すれば良いのだ。
そうした作品について「人間の筋肉を誤解させる怖れがある」などと注文をつけるのは、お門違いなのである。
ただし、これは「芸術世界の原理」であって、「現実社会の原理」ではないから、好きな芸術作品を作って、それで犯罪に問われる覚悟を、作り手は持たなくてはならないだろう。
その覚悟が無いのなら、これまでどおりに、無難にまとめておけばよいだけなのだ。
そして、本作のアニメ化に反対する人たちは、障害者の利害を代表して、そうした主張をすれば良いし、すべきである。
ただしそれは、ひとつの「党派利益の代弁」でしかなく「全体における正義」の実現そのものではないのだから、自分たちの「部分的な正義」を主張することはできても、それを他者に強制する権限などないということだけは、理解していなくてはならない。
言うまでもなく「党派利益」は、社会全体の中で調整され、制限されざるを得ず、「満額回答」というのは、基本的にあり得ないのだと、そう心得るべきなのだ。
もしも、仮にそれが「絶対的な正義」なのであれば、100人殺そうが1000人殺そうが、それを他者に強制すれば良い。
なぜなら、それが「絶対的な正義」なのであれば、何人殺そうと、それは「悪」を含むものでもなければ、「悪に転化」するものでもないからだ。悪を含んだり、悪に転化するような、そんな「絶対的正義」など、あり得ないからである。
つまり、どんなに「正義」そのものに見えようとも、人の考えや言説というものは、100パーセントの「正義」ではあり得ないのだ。
仮に、それが全員一致の賛成で「正義」だとされたとしても、それでもそれは「100パーセントの正義」ではあり得ない。
なぜなら、そうした評価もまた、所詮は時間に開かれており、将来(未来)には、評価の変わる可能性を否定できないからである。
だから、どんな正義を主張するのもいい、それは当然そうすべきなのだけれど、しかしそれは、どこまでも「個人の意見」や「党派的な正義」でしかなく、「絶対的な正義」などではないということを忘れてはならない。
だからまた、それを力ずくで他者に強制することがあってはならない。
それをしてしまった瞬間、その主張は、その中身の如何にかかわりなく、「悪」へと転化してしまうからである。
だから、言論というものは、どんなに「正義」に見えようとも、そうした現実社会の中で、ときに敗れ去ることもあるのだという原理を、誰もが認めなければならない。
自身の主張が「正しい」と信じている人ほど、こうした言論における原理であり宿命というものを、しっかりと受け入れていなければならない。発言者には、その義務があるからだ。
例えば、「健康帝国」と評されることもあるナチス・ドイツが、「健全な肉体」ということを「正義」化した結果、知的障害者や精神病患者、同性愛者、らい者などへの断種や粛清が強行されたし、日本でも、らい者への断種が「らい予防法」によって合法的になされたというのは、近年でも話題になった現実である。
しかし、そんなナチスだって、昔の日本人の多くだって、彼らは彼らなりに、それを善かれと思ってやったのだ。
だから、私たちもそうした歴史的現実に鑑みて、私たち自身の「良心」や「善」や「正義」すら、疑ってみるべきなのである。
それに、「優生学」のようなことなら、今でこそ公式には「悪」呼ばわりされているけれども、実際のところ、そうしたことを「わからないでもない」と思っている人は、今でも少なくないはずだ。
だからこそ、「出生前診断」を受けもし、それで問題が見つかれば、子供を人工中絶する人も多いのだ。
また、親兄弟に精神病者がいると知ったら、結婚を考え直すという人も少なくないはずだ。恋愛している当人は別にしても、それこそ親兄弟なら「ちょっと待て」という危惧は禁じ得ないはずだ。
つまり、私たちは、それが「差別」だと知っていてさえ、そうした感情を抑えきれない、覚悟なき「非理性的な生き物」なのだから、私たちが「絶対的な正義」を手中にできるなどと考えるのは、傲慢な勘違い以外の何ものでもないのだ。
だから、当然そんな「(部分的)正義」の強制など、許されることではないのである。
私たちはもう、ナチスの「理想主義」のような過ちを、二度と繰り返すべきではない。
だから、本作『みいちゃんと山田さん』も、せいぜい議論されるべきだろう。
だが、議論の結果がどのようなものであるにせよ、それを「圧力」や「権力」によって強制することは、決して正当化され得ないと、そう心得るべきである。
なぜなら、「議論の必要性」と「暴力的な強制」とは、まったく話が別(別問題)であり、前者が後者の、必要かつ十分な正当化理由にはならないからである。
「しかしそれでは、結局のところ、資本の論理や人々の下世話な欲望に、押し切られることになってしまうのではないか」と、そう言いたくなる人もあろう。
そうなのだ。多くの場合、そうなってしまうのだ。
だが、それは私たちがその程度の生物である以上、やむを得ないのだ。
議論して、決着がつかず、多数決になって決まるのなら、それがどれほど誤ったことに見えても、それに従うしかない。
それが、さして好ましくもない「民主的な決定」というものの現実だからだ。
しかし、それでも「あきらかに正義に反する(不正義)」だと確信し「それを絶対に許せない」と思うのであれば、それはそれでやむを得ないのだから、法を犯してでも、人を殺してでも、自分がそれで捕まって死刑になることになっても、それをやるしかないし、やれるはずだ。
「絶対的な正義」だと確信している者に、それができないはずがないし、それに自身の命も賭けられないような「正義」なら、そんなものは「絶対的な正義」でも何でもないというのは、明らかだとも言えよう。
つまり、理性と言論の正義を信じるのならば、どんなに「正しく思える意見」であっても、異論の前に敗れさることもあるという現実を、覚悟しておかなければならない。
そして、それでもそれが「不正義」だと思うのであれば、その時は、おのれ一人の命を賭して、その「個人的な正義」を貫くしかないだろう。
それはすでに、事の善し悪しではなく、そうするしかないということであり、否定しても意味のないものだからである。
したがって、本作のアニメ化に関する議論も、眠いたい「正論合戦」などに止まるならば、所詮それは、どちらも「偽善」でしかないのだとそう心得て、徹底的に意見を闘わせるべきなのだ。
その上で決断し、決定するしかない。
八方が丸く収まる「正解」など無いのだと、そう考えるべきである。

で、私個人の具体的な意見を最後に書いておくと、本作『みいちゃんと山田さん』を劇場用のアニメ作品(R18+)にするのなら、それはけっこう。
前述のとおり、そんな実写映画なら、これまでにも、いくらでもあるからである。
だが、テレビ放送はアウトだ。
なぜなら、「誤解」する人の方が、圧倒的に多いに決まっているからであり、それゆえに誰もが見られるようなところになど、出すべきではない。
どうしても見たければ、それなりにカネを払い、出かけて行ってでも見ろ、ということである。
また、アニメ版の制作体制として、「障害者問題」の専門家を入れる必要などはなく、ただ、製作者は、その良心にしたがって、最高の作品にするように努め、その結果を全面的に引き受ける覚悟で作るべし。
その結果として、人に恨まれ、謗られるくらいのことは当然として、恨まれるようなものを作るのだから、刺される覚悟くらいは持って、それでも作るべきだと思えるようなものを作るべきである。
そこまでやったら、あとは、なるようにしかならないのだ。
つまり、そこまで、突き詰めるべきなのである。
無論、匿名での意見や、集団名義の意見など考慮には値せず、発言責任の所在を明記した上で、あとで責任を問うことが出来るようにしておくべきである。無責任な言い捨ては、議論の混乱を招くだけのものでしかないからだ。
責任の持てる者どうしが、実のある議論をしなければ、そもそも意味がないのである。
「たかがマンガのアニメ化ごときの話で」と、思うような者は、雑音を立てるべきではないし、そんなものに耳を貸す必要も価値も、初めからありはしないのだ。

(2026年9月19日)
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