荒木優太 『無責任の新体系 きみはウーティスと言わなければならない』: 誰でもない私であることを選ぶ。

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▷ 書評:荒木優太『無責任の新体系 きみはウーティスと言わなければならない』(晶文社)


荒木優太の本はこれが3冊目となる。前の2冊については、結果として批判的なレビューを書くことになってしまったのだが、それは私の本意ではなかった。
つまり、出来ることならば「褒めたい」と思って読んだのだが、結果としては褒められなかったのだ。

褒められなかったばかりが、かなり手厳しく批判してしまった。
年配の人しかわからないだろう言い回しだろうが、言うなれば私は「涙隠して荒木優太を斬った」のである。

なぜ、読む前から荒木優太を褒めたいと思っていたのかというと、その理由は、例の「オープンレター」絡みである。その正式名称は、

・「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」

に関わるのだ。

(ちなみに、上のWikipedia「女性差別的な文化を脱するために」の項目は、Wikipedia編集者でもある、当事者北村紗衣の手が入っていると推察される。現に、オープンレターに批判的な意見は採用されておらず、関係者名がいっさい記されていない)



ここで、例によって「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」(以下「オープンレター」と略記)についてと、その「オープンレター」の主唱者であり武蔵大学の教授で自称フェミニストの北村紗衣について、さらには、北村紗衣とその批判者である私の関係を説明しなければならないところなのだが、今回はそれを少し端折りたい。

「オープンレター」の問題は、その発生からすでに5年もの歳月が経過しており、多くの人にとっては、もはや過去の話となりかけている。

とは言え、関係者(被害者)にとっては、それは決して過去のことにはならない「歴史的な加害事件」としての「過ぎ去らない過去」である。
だからこそ、北村紗衣とネット上で論争した與那覇潤や、そのあと北村紗衣から喧嘩を売られたこともあって、北村紗衣批判の第一人者となった私のなどのほか、幾人かの人たちにより、「オープンレター批判」は細々と続けられてきたのだ。


だが、つい先日、この「オープンレター」への賛同署名者の一人であり、「オープンレター」の加害責任について未だ自己総括をしてはいない、東京大学教授の本田由紀が、ネット上で「差別発言」して炎上し、それによって「オープンレター問題」も再燃したという小事件があって、それを與那覇潤がちょうど昨日、記事にしてアップしていた。


つまり、この與那覇の記事を読んでもらえば、関連記事へのリンクも張られているし、「オープンレター」のおおよそのことはわかると思うので、ここでは、そちらをご参照いただくということで済ませることにしたい。


さて、そこで話を荒木優太に戻すと、私が荒木の名前を知ったのも、與那覇潤のnote記事においてであった。


その記事で與那覇が紹介していたのは、前述の本田由紀と同様「オープンレター」の賛同署名者でありながら、やはりその総括をしないまま沈黙を保っていた、哲学研究者(自称・哲学者)である大学教員の朱喜哲が、「オープンレター」から5年も過ぎて、ほとぼりが冷めたとでも思ったのか、「オープンレター」の発起人の一人であり専修大学教授の河野真太郎と、対談イベントをやるというのを知り、朱喜哲と共著もある荒木優太が『朱喜哲さんはそろそろご自身も関わったオープンレター騒動についてちゃんと総括するべきだと思う。』とXに投稿した、という事実であった。


ちなみに、與那覇の記事は、本年6月29日付けで、河野真太郎・朱喜哲の対談イベントは、その半月ほど後の7月18日に開催されている。


「オープンレター」の、キャンセル・カルチャーとしての加害性を認め、それが「オープンレター」関係者によって、今もなおまったく総括されないまま、うやむやに放置されている状況を、不適切視している人は少なくない。

だが、この1000人を超える学者が賛同署名した「オープンレター」は、1人の学者の学者生命をいったんは奪った、学者の世界の「汚点」として、きわめてセンシティブな事件であるため、大学教員はもとよりその周辺の出版関係者や文筆家などの多くも、この事件については、タブー視して口を閉ざしたままなのだ。

そんな中、「オープンレター」署名者である朱喜哲と縁のある荒木優太が、あえて上のように公に発言した勇気に、私はいたく感心した。
そして、そんな今どき極めて珍しい、「公私混同しない筋論的な発言」をした人の書いたものを読んでみたいと、そう思ったのである。

で、最初に読んだのが『これからのエリック・ホッファーのために 在野研究者の生と心得』であり、その次が『貧しい出版者 政治と文学と紙の屑』、そして今回は3冊目で、本書『無責任の新体系 きみはウーティスと言わなければならない』ということになったわけである。

どうして、こういう順序になったのかについては、さして深い理由があるわけではないが、そのあたりの経緯も下のレビューに書いてあるから、ご参照いただければ幸いである。


ともあれ、『これからのエリック・ホッファーのために』と『貧しい出版者』の2冊を、私は褒めることが出来なかった。褒めたかったのに、結果としては、けっこう手厳しく批判してしまったのだ。

こう書くと「嫌なら批判しなきゃ良いだけじゃないか」と言われそうだが、レビューを書くつもりで読み、予想に反してそれが褒められないものだったとわかったからと言って、必要と思える批判を避けるためにレビューを書くのを辞めるというのは、私の主義に反することだから出来なかった。それは、批評することからの「逃げ」に他ならなかったからである。

当初の意図がどうであろうと、読んで「ダメだ」と思ったものは「ダメだ」と言わなければならない。それが、私の「書き手としての倫理」なのだ。
批判すべきものを批判せず、褒められるものだけを褒めるというのでは、私が日頃批判している提灯持ち批評家と大差ないからである。

何が嫌いと言って、党派的な発言ほど私の嫌いなものはない。
中身が同じでも、身内の発言なら手心を加えたり褒めたりし、立場を異にする者の発言なら平気でこき下ろすみたいなことは、言論人にあるまじき醜行であるに止まらず、人間として恥ずべき「アンフェア」であると、私はそう考えるのだ。

だからこそ私は昔から、むしろ「身内に厳しい」態度を採ってきたし、そのせいで、いくつかのサークルを追い出されたり、mixiやTwitterや Amazonカスタマーレビューやnoteなどで、アカウントを凍されたり、投稿禁止措置を食らったりした。
私の投稿した記事について、そうしたSNSの運営管理者が不透明な介入をし、それを私が徹底的に批判追及したりしたからだ。

運営管理者に向けて「私の書いたものの、ガイドラインのどの条項に違反しているのか、具体的に説明してください。私と貴社とは、対等な契約関係なんだから、処分される以上、説明を求める権利はあるはずだ」と、遠慮なく繰り返し連絡したのである。
きっと「なんてうるさい奴だ」と思われたことだろう。

ともあれ、そんなわけで、アマチュアではあっても、いやアマチュアであればこそ、言論人としての筋を通さなければならないと考えたし、そのためには党派性に縛られることは恥ずかしいという意識が強く、まあ、そもそも徒党を組むとか、みんなで連れ持って盛り上がるみたいなことの大嫌いな人間だったので、荒木優太の朱喜哲に対する「批判的忠告」を稀有なものとして、心から感心した。

だが、そのことと著作への評価とは、また話が別だということで、忌憚なく批判的レビューを書いたのである。

そんなわけで、気持ちとしてはできれば褒めてあげたいと思いつつ、3冊目として本書『無責任の新体系 きみはウーティスと言わなければならない』を読んだところ、喜ばしいことに、本書には無条件に共感できた。

議論にやや回りくどいところはあるものの、語られていること自体には、何の不満もない。

それどころか、まさに「これって、まるで私のことを書いているようなもんじゃないか」と、そんな内容だった。
だから、これはもう、褒めるしかなかったのである。


 ○ ○ ○

本書『無責任の新体系 きみはウーティスと言わなければならない』(以下『無責任の新体系』と略記)には、いったい何が書かれているのか。

簡単に言えば、「無責任」さを回避するにはどうすれば良いのか、という議論である。

そして、さらに言えば、ありがちな無責任を乗り越えるためには、別様の「新しい無責任の体系」とでも呼ぶべきものが必要だろうと、そのように訴えたのが本書なのだ。メインタイトルの『無責任の新体系』とは、そういう意味である。
「無責任な態度を乗り越えるための、新たな無責任のあり方」を提示しているのだ。

そして、サブタイトルの「きみはウーティスと言わなければならない」の「ウーティス」とは何かというと、これはホメロスの叙事詩『オデュッセイア』から採られた「誰でもない」という意味の言葉である。
神話の英雄オデュッセウスが、一つ目の巨人であるキュクロプスから逃れるため、キュクロプスに「お前は何者だ」と問われて、「ウーティス」つまり「誰でもない(という名前の者だ)」と、機知をきかせて答え、難を逃れたという物語に由来する言葉である。

つまり、「ウーティス」というのは、今で言うなら「匿名」みたいなものなのである。「名前(個人名)」を告げないことにより難を逃れたと言えば、私たちがすぐに連想するのは、ネット上での「匿名言論」による、言い逃げあろう。要は「無責任」の典型が「ウーティス」なのである。

したがって、本書のテーマが「無責任の乗り越え」であるとすれば、「きみはウーティスと言わなければならない」というサブタイトルは、一見「匿名のススメ」であり、真逆なことを言っているような印象を受けるのだが、これはそういうことではなく、一種の逆説なのである。

だから、本書が冒頭に掲げる謎とは「無責任を回避するための、新しい匿名とは、いかなるものなのか?」ということであり、著者の荒木優太が、このアクロバティックな結論に、どのように着地してみせるかというのが、本書の読みどころなのである。

で、このアクロバティックの結論を導き出すために、けっこう、ああでもないこうでもないという議論が展開される。
そこがいささか「回り道」でもあれば、哲学談義として素人には十全には理解しにくいところでもあるのだが、結論自体は、そんなに難しいものではなく、なるほどねというところに着地するのである。

本書では、まずハンナ・アレントが呼び出されて、彼女の語った、言うなれば「個人責任」論に対置するかたちで、丸山眞男や阿部謹也、山本七平などによる「日本人論」が対置される。

要は、アレントの語る人間観は、責任主体としての「個人(の確立)」というものを重視する西欧的な価値観に基づくもので、丸山眞男のそれも、そうした西欧との比較において、日本人の「なあなあ主義的」な無責任さ批判したものであった。

またそれ対し、その後に出てきた「日本人論」の多くは、和辻哲郎的な「間柄的日本人論」となっており、近年の平野啓一郎らによる「分人」主義というのも、保守的な和辻とは政治的な立場こそ異なるものの、似たようなところがあって、要は「責任を担うための主体たり得るためにはどうするのか」という問題意識においては、一長一短だというような議論が展開される。

そしてその後には、「戦後責任」問題として闘わされた、加藤典洋と高橋哲哉による「歴史主体論争」が検討にふされて、やはりこれも、どちらの論も一長一短があるとされた後、両者が参照したエマニュエル・レヴィナスと、レヴィナスの翻訳者で、加藤典洋の方を支持した内田樹、そして高橋哲哉に近い立場の井上達夫など、多くの学者や作家が検討され、最終的には、『正義論』で知られるジョン・ロールズの提唱した「無知のベール」を積極的に再評価するかたちで、荒木優太の考えたところが示されるのだ。



それでは、その荒木優太による結論とはどういうものなのかというと、それは「絶対的に責任を引き受ける」でもなければ「誰にも責任など取れない」でもない、その間で、あらゆる人の立場に立って考え続けることこそが、唯一の答だ、というものなのである。

『 私たちはもう、このどちらかを選ぶべきだ、といった牧歌的な選択肢の前に立ってはいない。自己責任にしろ、連帯責任にしろ、帰責の操作の背後で意図的な、いや、ときに役割分担の分節から不可避的に要求される責任転嫁が生じてしまう。』(P159)

『 ロールズは当事者を複数形で描き出す。それは人間が社会的な存在者であるという条件からくるものだが、同時に、複数の人生を仮想的に生きてみる思考実験のカナメをなすものでもあるはずだ。ある党派に偏っていても、それが複数の偏りであれば、ある種の公平性へと通じていくことができる。
 人生は具体的なものだ。言い換えれば、個々別々であり、それぞれが容易に一般化できない経験の厚みをそなえている。そういった特異な人生の群れに対して普遍的に妥当しうる正義の原理を構想するには、全知の神の化身のようなモデルに頼るのではなく、非力ゆえに傾き偏る多様な人生の物語をテストする必要がある。神さまの正しさに一直線に従うのではなく、できるだけたくさんのまばらなエピソードを介して普遍性に接近せねばならない。かもしれない、の想像力が貧困ならば、そこから得られる正義の原理も必然的に貧弱なものになってしまう。』(P181)


そして、これを実践するにはどうしたら良いのかという点については、要は、いろんな本を読んで、それに共感したり、反発したり、批判したりすることで、多様な視点を内面化できると、大筋そういうススメなのだ。

『 低文脈的(※ 多様な文脈に配慮するという高文脈ではなく、文脈的にはシンプル)な仮体験を何回も繰り返すなかで、自分なりの物語(※ 読解)の文法ができてくる。あるタイプの物語には大きな感動を覚えるのに、別の一群にはたとえ世評が高かったとしてもつまらなさを感じてしまう。なぜこのようなことが起こるのか、自分の読解力がないためか、作品が悪いのか、評論家が無能なのか、と考えて、再び同じ物語に戻る。同じ感想の場合もあれば評価が変わることもある。
 原理とされているものと自分の判断のあいだで往来していく循環を、ロールズは「反照的均衡」と呼び、正義の理論の導き方に柔軟性を取り入れた。ロールズの曖味な説明も手伝って専門家のあいだでも解釈の分かれる概念だが、ここにあるアソビ(冗長性)は、物語を読み直し、自分をふくめた読者を眺め直し、双方を新たな文脈のもとに置き直してみる、虚構の通俗的経験のなかに翻訳されている‥‥‥と(※ 私、荒木優太は、そう)考えてみたい。そのように捉えてみたとき、ペルソナ(※ 役割としての仮の顔)は真空のなかで無/責任の点検を命じる正義の(※ あり方をとうための、ロールズ的な)ヴェールへと身近な回路を通じて交代しているのではないか。
 物語を読んでつまらないと思うことは、感極まって泣いてしまうことと同じくらい大切なことだ。なぜつまらないかという問いは、つまらない話だけでなくて、面白いと持ち上げる他者たちと、つまらないと思う自分自身を問うことへと通じている。仮体験のその仮設性(※ 非決定性)を約束するアソビを通じて、狭義のフィクションだけでなく空気に囲われた言葉一般に対して角度を変えて読むこと、斜めから読む道筋が開けていく。』(P189〜190)


これなどは、まさに私の日頃からやっていることなのだが、無論これは、本書著者である荒木優太自身がやっていることなのだ。

荒木は「あとがき」で、身も蓋もなく、こう書いている。

『 改めて要約しておけば、本書のメッセージは単純で、第一に物語を読むことは素晴らしく、第二にたくさんの物語を読むことはさらに素晴らしく、第三にたくさん読むのと同じくらい何度も読み直すことが素晴らしい、ということだ。いつも身勝手に近代文学のテクストを読み替え、教科書通りに本を読まないことに特有の快楽を覚える天邪鬼の自分を単に自画自賛しているだけか、と一瞬反省して苦笑しないでもなかったが、それでも、いつも自分がなにをやっているのか、やっと言語化できたような清々しさを感じている。』(P213〜214)



私もしばしば、「版元の紹介文を繰り返すような、面白くもおかしくもない書評だの、書評もどきの感想文などはクソだ。独自の読みが無いものなど、批評の名に値しない」とそう酷評してきたのだが、ここで荒木優太は、同じことを少しだけ上品に言っているだけで、やっていることは、私とまったく同じなのだ。

だから、私が荒木優太の二著をこき下ろしたことについても、そんな荒木なら、おのずと納得して苦笑せざるを得ないだろう。

先に引用した文章の末尾部分での、「物語」という言葉を「批評文(評論文)」に置き換えても、その意味するところは少しも変わらないからだ。

「 批評文を読んでつまらないと思うことは、その読みの鋭さに感動することと同じくらい大切なことだ。なぜつまらないかという問いは、そのつまらない批評だけでなくて、それを面白いと持ち上げる他者たちと、つまらないと思う自分自身を問うことへと通じている。仮体験のその仮設性を約束するアソビを通じて、狭義のフィクションだけでなく空気に囲われた、批評文をも含む言葉一般に対して角度を変えて読むこと、斜めから読む道筋が開けていく。」


つまり私が、50,000人ものフォロワーを持つ北村紗衣・武蔵大教授の書く評論文を「クソだ」と評するのは、単に北村紗衣が嫌いだからではなく、事実クソだからであり、その根拠を示せるからなのだが、それでも私は、万が一にも北村紗衣が良いものを書いた時には率直に「良いものは良い(著者はクズでも)」と評せるか、という問いを自らに差し向けているし、事実、私は数十年にわたる「笠井潔葬送派」としての活動の中で、執拗かつ徹底的に笠井潔を批判してきたが、それでも、笠井潔の頭の良さは一度として否定したことはないし、その点については、何度となく褒めてもきたのである。



また、荒木優太が、本書でジャン=リュック・ゴダールへの評価を引き合いに出して書いていることも、私がゴダールについてやってきたこと、そのままだ。

つまり、高文脈的な読みを自明なものとせず、当たり前に低文脈的な読みをした上で、しかし、高文脈的な読みをも否定せずに試みるという、柔軟な多視点性の採用である。

『 ゴダールの映画を愉しめるか

 大衆と美学者のことを考えてみよう。大衆たちは、一瞥しただけでは意味が分かりにくい、思想的に暗示の富んだ演劇や映画一一たとえば、アルトーやベケット、そしてゴダールやトリュフォー 一一よりも、筋の明瞭なメロドラマや勧善懲悪譚を好む。意味が分かるから、面白いからだ。対して、美学者たちは、大衆にとっては眠いことこの上ないゴダールの映像を興味深く鑑賞することができる。
 両者の鑑賞眼を分かつのは、作品の形式性への姿勢だ。大衆は内容ばかりに気を取られ、それがどんなお話なのか、ハッピーエンドに至るかどうか、といった鑑賞ポイントに終始する。反対に美学者は、内容ではなく形式性を評価することができる。言い換えれば、内容をいったん括弧にくくり、対象から距離をとることで、芸術史の系譜のなかで作品を置き直して、表現形式の新しさ、思想的メッセージ、他作家へのオマージュの連関などを読むことができる。ベケット『ゴドーを待ちながら』は、舞台上でなにが起きるというわけでもなく退屈極まるが(大衆的受容)、ニーチェ的「神の死」からつづく現代思想の流れを頭のなかで参照できるならばそれなりに考えさせられる表現だ(美学者的受容)。
 この美学者的受容を支えるのが、まさに没利害的な(※ 目先の受益に終始しない)態度である。『ディスタンクシオン』(※ において、ピエール・ブルデューの)曰く、「知識人や芸術家は、「無私無欲」な姿勢および、最高の価値として広く公認されている普遍的な諸価値のすべてと固く結ばれるようにして、社会空間のなかに位置づけられている」。意味があるから、価値があるから、面白いから、という利に結びついているよう(※ な、けちくさい態度)では芸術(鑑賞)家としてはまだまだ未熟。いや、それ以上に、不届き千万。真の芸術は、なにかのためなどではなく、芸術それ自体へと奉仕している。
 こういったハイカラ連中の意識高い無意識の共同的態度によって、階級的で閉鎖的なサークルが形成され、芸術なるものが経済とは別次元にある純粋な営為なのだ、という神話が打ち立てられる。ゲージュツは、面白くない、が、貴重なものである。これはエンタメと呼ばれるタイプの表現が即物的な面白さを求めるのと大きな対照をなしている。』(P177〜178)


つまり、もともとの私は、アニメを中心にエンタメ映画しか見なかった人間なのだが、定年退職して時間に余裕が出来たので、噂のゴダールとやらを見てみるかと、そう思って見たところ「何だこりゃあ⁈」となってしまった。

そのとき見たのは、ゴダールの中ではポピュラーな代表作である『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』だったのだが、なんの予備知識もなしにそれらを見た私は「ストーリー自体は単純だけど、意味不明な独白なんかがあって、ゴダールがいったい何をしたいのか、さっぱりわからん」と、そう呆れたのである。


そして「こんな作品を、わかったのような顔をして褒めている映画マニアって、本当にわかって褒めてるのか?」と、そう大衆的な反発を覚えたのであるが、しかし、それで、そうした〈シネフィル〉たちを馬鹿にし、「ゴダールなんて所詮は」などとは言わず、「それにしても、あれだけ褒められるからには、ゴダール自体には何があるはずだ。それを知りたい」と思ったところが、我ながら、私の偉いところだったのだ。

それで、ゴダールの映画を見たり、蓮實重彦のゴダール論を読んだりしたのは無論、ゴダールが映画マニア(シネフィル)出身だと知って、ゴダールが見てきた古い映画まで見て、映画史まで実地に勉強しょうとしたところが、庶民的なルサンチマンに胡座をかかない、私の良さでもあったのだ。
そしてその結果、暫定的なものではあれ、自分なりのゴダール論を書くまでに至ったのである。



で、私がここで何を言いたいのかというと、それは荒木優太がここで言いたいことと同じで、ロールズの「無知のヴェール」を最も素直に受け入れることのできる「庶民目線」を忘れず、それでいて、その単視点のみには止まらない多視点性を持つことが、「責任」という難問を引き受ける場合にも必要なことだと、そういうことなのである。

庶民やマイノリティの視点を失わず、それでいて、(北村紗衣のような一部フェミニストのように)それに胡座をかくのでもなく、多視点的に自身を検討できてこそ、自己正当化による無責任な責任回避の欲望を、ぎりぎりのところで回避し得る(のかも知れない)と、そういう話なのだ。

私のサイトや「note」のトップページを見てもらえばわかるとおり、私は意識的に「凝り固まる」ことを避けて、レビューで扱うものを散らしている。

高文脈的な読みが必要なものも、低文脈で楽しめる作品も、共に同等の扱いで楽しんで見せているのだ。


これは、どちらかの立場に立って、反対の位置に立つ者を批判することで自身を正当化し、自身の責任を回避するというのではなく、両方を肯定し、同時に両方を批判することにより、可能なかぎり、すべての責任を引き受けようというスタンスであり、またその限界も認めた上での、その不完全性を受け入れるというスタンスなのだ。

つまり、私は、エリート(選民)でもなければ虐げられた庶民でもない。また、庶民を見下すエリートでもあれば、上級市民を妬み恨むことで自身を無罪化する姑息な大衆でもない。

私は、その両方として両方を両睨みで批判し、どちらかに安住しない立場を選ぶことで、自身の罪を引き受け、それで最低限の責任だけは取ろうと考える、高橋哲哉や井上達夫に近い立場の「逞しきリベラリズム」の一人であるつもりなのだ。

そのほかにも、本書で語られる「ペルソナにかかわる演劇性」の問題なども、私には馴染み深い話なのだが、そこまで書くと長くなりすぎるので、ここで筆を止めておこう。

ともあれそんなわけで、本書は「私のことが書いてある」としか思えない本だったので、個人的にはとても面白かった。

しかしながら、上っ面だけではなく、そう自信を持って共感を示し得る読者が、一体どれだけいるのかは、いささか疑問である。

なぜなら、本書で語られているのは、つまるところ「和して同ぜず」という覚悟だからだ。

言い換えれば、「私はウーティス(誰でもない)であって、誰の敵でも味方でもない」ということてあり、スタンドアローンということでもあるからである。

そして、そうした隘路を行くために大切なことは、結局のところ、それが楽しめるか否かにかかっているだろう。

『(※ 批判的な読みがなされた時)まさにそのとき、『オデュッセイア』という嘘っぱちの物語に関する、新しい読みの角度が読みの行為を通じて誕生している。つまりは、批判的な読者もまた、当の解釈によって、キュクロプス退治に加担しているといわねばならない。なぜならば、キュクロプスとは一つの角度さえあれば事足りると考える(※ 単視点的な)充足者のことなのだから。
 批評家連中が述べていることに妥当性はあるだろうか、自分の物語経験にとってどうだろうか。さらに問うのならば私たちもまたオデュッセウス一行(※ 探究者)の仲間入りだ。
 キュクロプスに呑み込まれてはいけない。怪物退治がヴェールの正義(※ 自分個人の立場に覆いを掛けることで、他者への想像力をうながすという正義)に通じているから、というお説数はもうしない。端的にそれ(※ 多視点的な試み)は楽しいからだ。自国の葡萄酒で舌の肥えたキュクロプスを酔わせたのはオデュッセウスが船に積んだ外国産の逸品だった。一つの角度ではなく角度の差を経験することで、物語世界の見え方は大きくさまがわりする。現実世界は往々にして急変してもらっては困る諸々の事情に縛られている。その解釈もだから必然、大きな政治的闘争に直結してしまう。が、物語はそうではない。どのように読み解こうが、たとえそれが誤読だろうが、無責任に遊びながらテストすることができる。
 むしろ、キュクロプスを(※ 私たちの方が)呑み込まなければならない。一つの角度でもう満足だと自称する者に、こっちの方がもっと楽しいのだといって、怪物の眼(角度)を増やす責任が楽しい無責任にはある。
 無責任なアソビが率直に楽しいと感じられるとき、自分が絶対的に医者であったり教師であったり(※ といった絶対的な判定者であったり)するわけではないことに気づき、それと同じように、目の前の他者が絶対的にフリーターであったり就活生であったり(※ といった絶対的な弱者であったり)するわけではないことにも気づく。無責任は責任を自問する責任という二重化した責任の、その二重性を支える間の距離を切り拓く(※ ひとつの立場に縛られない)。
 おそらくは(※ 従来からの)「無責任の体系」を断ち切る快刀乱麻は諦めねばならない。断ち切ったと思った瞬間、強く体系化されているのが人間の無責任(※ というタチの悪いもの)なのだから。むしろ断ち切ると同時に縫い合わせを始める匿名性の弥縫策だけが最悪を回避できる。誰でもないということは何にでもなれるという楽しさを帯びた可能性の連帯でもある。
 もはや次のように述べていいだろう。きみはウーティスと言わねばならない。』(P194〜196)


『誰でもないということは何にでもなれる』ということであり、そこには荒木優太の言う「楽しさ」がある。

しかしながら、私が思うのは、その「楽しさ」とは、「誰でもないことの自由」に由来するものであり、しかし、はたして多くの人は、そんな「自由」に堪えられるのだろうか、ということだ。

エーリヒ・フロムではないが、私はこう問いたい。

一一あなたは「ウーティスのいう自由からの逃走」を企てないという、それだけの自信があるか?

その点において、「誰でもない」ことと「匿名」とは、真逆に近いものでもあるのだ。

「匿名」者とは、じつのところ、「何者でもあり得ない者」のことだからである。


(2026年9月18日)


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