▷ 作品評:出崎統監督『ガンバの冒険』(全26話・1975年)
若い頃からの熱心な出崎ファンなのだが、『ガンバの冒険』だけは、なかなか見る気がしなかった。
いや、正確には『ガンバの冒険』だけではなく、見ていない作品はけっこうある。
各話監督(演出)作品のことではなく、出崎がシリーズ丸ごと監督をつとめた作品でもだ。
例えば、日米合作の『マイティ・オーボッツ』、晩年のTVシリーズ作品『おにいさまへ…』『手塚治虫の旧約聖書物語』『白鯨伝説』『ASTRO BOY 鉄腕アトム』『雪の女王 The Snow Queen』『ウルトラヴァイオレット:コード044』『源氏物語千年紀 Genji』、単発のテレビスペシャル『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』他の5作、劇場版の『ブラック・ジャック』、『劇場版 とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険』他の4作、『劇場版AIR』『劇場版CLANNAD -クラナド-』、OVAの『1ポンドの福音』、『華星夜曲』『エースをねらえ! ファイナルステージ』『B・B』『修羅之介斬魔劍・死鎌紋の男』『宝島メモリアル 夕凪と呼ばれた男』『ブラック・ジャック』『ゴルゴ13〜QUEEN BEE〜』『ブラック・ジャック FINAL』など。
以上はWikipediaから拾ったのだが、「など」としたのは、見落としや微妙なものもあるからだ。また、「微妙」というのは、ちょっと見て止めてしまったとかいったような作品のことだ。
見ていない作品、見ていない理由とは、おおむね次のようなものである。
(1)日米合作作品のように、見る機会が逸した。
(2)晩年の作品で、評判にならなかったもの、評判の聞こえて来なかったもの。
(3)出崎統向きの原作ではないと感じられた原作付き作品。
(4)コメディや幼児向け作品には、基本的に興味が無かった。
おおよそこんなところだろうか。
出崎統が肯定的に語られる際の作品とは、『あしたのジョー』(1・2)『エースをねらえ!』『ベルサイユのばら』『宝島』『家なき子』『ガンバの冒険』あたりで、たぶんその頃が、出崎統の作家的最盛期なのではないだろうか。
言い換えれば、出崎統がいかに優れた演出家であろうと、やはり作品の傾向に向き不向きはあるだろうし、長いアニメ作家歴のなかで、その力量としての充実期・最盛期もあれば衰退期もあるだろうということだ。
だから、出崎に不向きそうな作品や最盛期をすぎた晩年の作品には、正直言って期待できなかったのだ。
晩年の作品でも、出来さえ良ければおのずと評判が伝わってくるはずだが、それが無いとということは、やはりそれなりのものでしかなかったという疑いが濃い。
また、出崎と盟友のアニメーター杉野昭夫がコンビで原作者となったオリジナル作品『白鯨伝説』は、二人が前々からメルヴィルの『白鯨』をやりたいと言っていたのが、紆余曲折を経て「SF版白鯨」になってしまったのだろうとの察しはつき、それなりに期待して、たしか数話ほど見たのだが、一一これがまったくの期待はずれだった。
それなりに力は入っているのに、苦手なSFアクションものだったせいなのか、『SPACE ADVENTURE コブラ』に似た、それをより悪くしたような「空回り」感があって、見ていてつらかったのだ。
だから、それ以降の晩年の作品は怖くて見られなくなってしまった。好きな作家だけに、最盛期をすぎて衰えた姿など見たくはなかったのである。
もちろん、私の見た部分がまたまた不出来だったのかも知れない。一一だが、どうしてもそうは思えなかったのだ。
前述のとおり、出来が良ければ評判になっているはずなのだが、そんな評判をとんと聞かなかったから、きっともう往年のような作品は作れないのだろうと、そんなふうに思ってしまったのである。
だが、『ガンバの冒険』は、そうした理由で見なかったのではない。
この作品は、出崎統の最盛期の作品だし、とても評判の良い作品だからである。

では、なぜこれまで見なかったのかと言えば、理由は簡単で、まず私の場合、動物(擬人化)ものにはあまり触手が動かないし、明らかに子供向けの作品という点でも興味をそそられない。
つまり、『ガンバの冒険』を見る気になれなかった理由とは、後年の『とっとこハム太郎』とだいたい同じなのである。
『とっとこハム太郎』も、幼児向けアニメとしては評判は良かったようなのだが、そのあたりまで見たいとは思わなかった。私としては、出崎統には「ハードなドラマ」を期待しているから、いくらよく出来ていても、子供向けの作品には触手が動かなかったのである。
しかしながら、出崎統を論じるには、やはり『ガンバの冒険』は「見ておかないといけない作品」だという意識は、前々から持っていた。
また『ガンバ』は、出崎最盛期の評判の良い作品であり、見て落胆失望するような作品ではないというのは、ほぼ間違いのないところだったのである。
私個人の趣味としては、児童文学が原作の動物ものというのには興味を持てなかったのだが、いずれ出崎統を論じるためには、見ておかないといけない作品だと、長らくそう考えていた。

だが、「ねばならない」という義務感では、なかなか娯楽作品を見ることは出来ない。
まして、映画のように2時間では終わってくれないシリーズものをや、である。
だから、たまたま今回、まとまった時間的余裕ができたというのはまさしく僥倖であり、そうでなかったら、下手をすると死ぬまで見られなかったかもしれない。すでに数年前にDVD-BOXを買ってあったにもかかわらず、だったからである。
ともあれ、長年の懸案であった『ガンバの冒険』を見ることができて、やっと大きな肩の荷を下ろせた思いである。一一こう言っては出崎さんに失礼かも知れないが、それが正直な気持ちなのだ。
そうでなくても、見たい映像作品や読みたい本が山ほどあるのに、それらを後回しにして、あまり気の進まない作品を鑑賞するというのは、自分で言うのもなんだが、よほどのことだったのである。
さて、今回も前振りが長くなったが、その結果はどうであったのか?
○ ○ ○
端的に言うと、よく出来ていた。しかし、やはり私の好みではなかった。
完成度は高い。その評判に誤りはなく、傑作と呼んで良い作品である。
一一だが、やはり児童向けの作品ではあり、私が出崎統に期待する「人間を(深く)描く」ということまでは、やっていない。
主人公であるネズミのガンバたちは、手がたくキャラクターが立っており、安心して楽しめる作品である。
だが、その「内面性を突き詰める」といったことはしていない。そういう作品ではないからであろう。

だから、ガンバたちが力を合わせて立ち向かう悪の親玉、白(アルビノ)イタチの「ノロイ」は、最初から徹底的に恐ろしげに描かれてはいるのだけれども、そのイメージのわりには、最後は意外と簡単にやられてしまう。

ノロイが「弱い」というのではなく、それまで延々と語られてきた伝聞的イメージが、あまりにも強烈だったので、そのイメージどおりなら、ガンバたちにはとうてい勝ち目がないとしか思えない。そんな描かれ方だったから、そのように感じられたのだ。
なにしろ、狼や狐や犬などは、強そうには見えても、ノロイの恐ろしさには及ばない、言うなれば前座扱いの存在でしかなかったからである。

だから、終盤でいよいよ登場したノロイは、そもそも言葉を発しない方が、不気味で良かったのではないかとさえ思うだが、原作も含めた物語の都合上、そういうわけにはいかなかったのだろう。
だが、いかにも悪者っぽく憎々しげな声だとしても、言葉を発すれば、正体不明の「魔物」感は薄れてしまうのである。
(※ ちなみに、ノロイに声を当てたのは、往年のTVアニメ『バビル2世』の敵役ヨミや『チキチキマシン猛レース』のブラック魔王などをやった、悪役の大御所声優・大塚周夫。アニメ『攻殻機動隊』シリーズのバトー役などで知られる、大塚明夫の実父である)
もちろん、ガンバたちがノロイに敗れて(死んで)終わることの出来るような作品だったら、私が期待したような、深い性格描写も可能だっただろう。




だが、本作には児童文学の原作があって、それはたぶん「個性の違ったみんなが力を合わせることで、圧倒的な強敵を倒す」という、弱者でもチームワークによって「正義は勝つ」パターンの、少なからず教育的配慮のある作品だったのだろうから、その基本線を外すわけにはいかなかったのだと思う。
その意味で、当初から期待され目指された王道の物語としては、期待どおりによく出来た作品だったということだ。
だが、いかんせんそれは、私の期待するものではなかったのだ。
だから、本作で私が「ここはいいな」と思ったのは、ガンバたちよりもむしろ、背景的な存在として描かれていた人間についての、例外的な描写であった。
第15話「鷹にさらわれたガンバ」に登場する、人間の青年の描写である。
山小屋のガイド
声 – 伊武雅之
カラス岳の山小屋に一人で住む登山ガイドの人間の青年。孤独な一人暮らしから故郷に残した母親や友達への郷愁で塞ぎ込んでいたが、たまたま鷹に襲われて(※ 攫われて、仲間たちからはぐれ)山小屋に逃げ込んだガンバを見つけると傷を手当てして食べ物を与えて助け、旅立ちを見送った(男が付けていた日記の日付に昭和50年7月14日と書かれているのでガンバが山小屋にいたのは本放送放映日と同じ昭和50年7月14日の夜〜昭和50年7月15日の朝)。
本作は全編がネズミの視点で描かれているため、人間は「恐ろしいほど巨大な生物」というイメージで統一され、モノトーン処理され表情も読み取れないのが基本となっている。しかし、このガイドだけはガンバとの交流を描くためか、表情が読み取れるようにデザインされている。(第15話)
(Wikipedia「ガンバの冒険」)
つまり、本作シリーズは、ネズミ視点のネズミの世界だから、人間は「恐ろしいほど巨大な生物」というだけではなく「理解できない、とにかく怖しい生き物」として、ある意味で「非人間化」されて描かれているのだ。
ガンバたちにとっては、人間はいつでも、ネズミを目の敵にして襲ってくる(駆除しようとする)巨大生物なのである。
そのため、たいがいの場合、顔はフレームからはみ出して描かれず、例外的に描かれても、帽子などで目元が隠されており、その「表情」は読めない。
ガンバたちに迫りくる人間の手足は描かれるから、着衣は描かかれているのだが、その存在が丸ごと白塗りにモノトーンの影がつけられているだけ、という描写なのだ。
ガンバたちからすれば、人間の多様な「服装」も、人間の身体の一部みたいなものだからだろう。服装すら(ガンバたちの服装とは違って)個体識別の情報とは、認識されていないからである。


そしてこうした描き方は、『アニメージュ』誌1979年9月号の特集記事「絵の詩人 杉野昭夫」での座談会(杉野昭夫、出崎統、丸山正雄、金子満)で、出崎の語った演出法の、応用発展版だと見て、まず間違いはないだろう。

出崎 たとえば、(TVシリーズ版『エースをねらえ!』では)主人公以外の人物をぜんエシルエットにしちゃったり、それも黒いシルエットじゃなく、白ぬきのシルエットにしてね。それが、えらく評利わるくてなんだ、あの白い人間は‥‥‥なんていわれたけど、アニメだからなんでもベタベタぬってやらなきゃあいけないというきまりはないわけだし、動かなくってもいいんだ
金子 それは杉野さんにも抵抗はなかったの?
杉野 抵抗っていうか、やっぱりおもしろがってやってたんだけども、セルだから(※ モノクロの漫画ではなく、基本カラーのセル画だから)無理なんだよね。
出崎 残念だけどやめたね。おかしかったのは、主人公の顔のあたりはノーマルにぬって、だんだん下にいくにしたがって白に変わっていく。そうやれば顔にポイントがいくと思ったら、逆にめずらしいもんだから、みんな足元に目線がいっちゃって…(笑)。
つまり、『エースをねらえ!』においては、葛藤状態にある主人公を含むメインの人物と、その他大勢(モブ)とでは、存在の位相が違うから、描き方の解像度にも違いをつけるべきだという、これはしごく真っ当な考え方による演出だったのだ。
実写作品以上に、画面全体にピント合ってしまうアニメ的な描き方では、世界に奥行きが無くなって平板になってしまう。
だから、必要に応じて、背景をボカしたり省いたりするように、画角に入りこむ人物についても、その重要性においてメリハリをつけようとした、ということである。
したがって、『エースをねらえ!』の時には、そうした狙いを持ちながら、あまりうまくやれなかった演出を、『ガンバの冒険』では、きっちりと修正して見事に活用していたのだ。
したがって、『ガンバ』の世界では、第15話までの人間は、すべて顔(表情)の描かれていない「モノトーン」の背景的な存在だったのだが、第15話に登場する山岳ガイドの青年だけは、意図的に『表情が読み取れるようにデザインされて』いたのである。


Wikipediaでは、この例外的な扱いについて『このガイドだけはガンバとの交流を描くため(※ そうしたのだろう)か』としているが、たぶんそうではない。
きっと出崎はここで、ガンバたち擬人化されたネズミを描きたかったのではなく、やはり「人間」が描きたかったのだ。
ここでは、ガンバの方が、青年を描くための小道具として、仲間たちからはぐれたかたちで登場させられていたのである。
出崎はここで、子供向け作品という枠に縛られることなく、一匹のネズミの存在によって救われる、「青年の孤独」というものを描きたかったのではないだろうか。
だから、たしかに『ガンバの冒険』は、求められたところにおいて、よく出来た作品ではあるけれど、やはり、出崎統のやりたいことをやりたいようにやれた作品ではなかったのではないか。
第15話とは、シリーズ的な抑制のタガが外れて、ついやってしまった、やらずにはいられなかった、名エピソードだったのではなかったろうか。
一一こんなふうにに考えるのは、果たして私の趣味に引きつけすぎた、牽強付会なのであろうか?

(2026年3月23日)
○ ○ ○
【関連レビュー】
◇ ◇ ◇
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○









コメントを残す