▷ 書評:酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』(全5巻・文春文庫)
おかしなタイトルだ。
『三国志』ファンではないから、詳しいことはよく知らないけれど、諸葛孔明と言えば、奇略に長けた知謀の天才軍師であり、とにかくカッコいい知性派タイプだという印象が、私にもある。
だから、「泣き虫弱虫」というのは、諸葛孔明のイメージとは、真逆なように思えたのだ。
したがって本作は、そんな捻った(捻くれた)設定の、言うなれば「へなちょこ孔明」を描いた、コメディ色の強い作品なのかなと、タイトルを見て、まずそんな印象を受けた。

だが正直なところ、私は酒見にコメディを期待してはいない。
というのも、酒見賢一という作家に本格的に惚れ込んだのは、シリアスな大河伝奇小説『陋巷に在り』(全13巻)だったからである。
酒見の作品はたいがい読んでいるから、酒見はいろんなパターンの小説を書くし、書ける作家だというのは、重々承知している。
だが、私としてはデビュー作の『後宮小説』と前記『陋巷に在り』以外は、ハッキリ言って、あまり評価していなかったのだ。
だから、本来なら本作『泣き虫弱虫諸葛孔明』は、私が積極的に読もうとするような作品ではなかったのだが、それでも酒見作品の中では、『陋巷に在り』と並ぶ大作だったので、もしかすると『陋巷に在り』に匹敵する傑作なのではと、そんな期待を禁じ得ず、読まずに放置しておくことなどできなかった。
結果としては、私の趣味ではないかもしれない。けれどもそれを確かめるためだけにでも一読の価値はあるとそう思い定めて、今回ついに読むことができたのである。
では、その結果はどうであったか?
はっきり言って、『陋巷に在り』ほど無条件に楽しむことは出来なかった。
では、つまらなかったのかと言えば、つまらなくはなかった。
予想していたとおりコメディ的な部分は多々あって、やはりそこは趣味に合わなかったのだが、しかしまた、それだけの作品ではなかったのだ。コメディではない部分に、けっこう惹かれたのである。
一一どういうことか。
本作は、全5巻で各巻平均500ページ超もある大作である。
500ページというと、普通の小説本のおおよそ2倍だから、それで換算すれば、普通の小説本で10巻前後の作品だと考えてもよい。つまり、『陋巷に在り』には及ばないものの、かなりの大作だというのは間違いないのだ。
で、問題は、全5巻のうち最初の2巻、つまり「第壱部」と「第弐部」あたりまでは、コメディ色が強いのだが、それ以降、徐々にシリアス度を増していく。
極端な転調があるわけではなく、孔明の五丈原での死に向かって、物語がおのずと重くなっていくのだ。
このあたりの事情は、最終巻(第伍部)の解説者・稲泉連が、次のように語っているとおりである。
『 さて、完結編である第伍部では、孔明の南征と五度の北伐、五丈原での最期が描かれる。関羽や張飛、そして、劉備はすでに世を去ったが、それでも正史「三國志」と小説「三国志」(※ 『三国志演義』)の間を行き来する(※ 本作の)語り手の絶妙な舞台回しも相俟って、物語のテンションはしっかりと維持される。孟獲を敬服させた「七擒七縱」のエピソードや、泣いて馬謖を斬る「街亭の戦い」など見せ場も満載である。
ただ、人材不足の中で奮闘する孔明の背中には、やはり一抹の寂しさが漂うのも確かだ。未席の汚し合いで部屋の隅に黒山の人だかりができる狂乱の飲み会や、軍師(※ 孔明)に策を丸投げしたくせに、「忍びぬぅ!」(※ 堪え難い)と唐突に義心を発動させ(※ 策を台無しにす)る〝サク中〟劉備の「ダッーハハハ」という快活な笑い声も、すでに遠いものとなった。そんななか、主君の遺言とともに蜀という国を一身に背負い、どうにか強大な魏と対峙しようとする孔明の姿には胸を衝かれるものがあった。
とりわけ「死せる孔明 生ける仲達を走らす」のクライマックスへと向かう第五次北
伐の最中一一孔明は三顧の礼以来の〈愉快な日々〉を思い返して劉備の廟で祈る。先帝(※ 劉備)とは如何なる人であったのかと問う姜維に向けて、「ときどき、しんみりといい顔をする人でした」と言葉少なに語るシーンなどには、心を打たれずにはいられない。そんなふうに妙に湿っぽい気持になったのは、私が著者の描いてきた個性的な(※ 本作独特の、強くてカッコいいだけではない)英雄たちを、やはり愛してしまっていたからに違いない。』(P704〜705)
つまり、前半のいささか「変則的な語り口」と「ユニークな人物造形」が、後半の「三国志」(『三国志』と『三国志演義』)に即した、いささか「つらい展開」の中で生きてくるのだ。
特に、いつも「宇宙」に思いを馳せ、現世とは仮住まいのお遊びにすぎないとでもいったふうだった変人・孔明が、その自由な精神を犠牲にしてまで、戦乱の世において引き受けた使命と義理を、命を賭して果たそうとする姿には、胸を衝かれるものがある。
そこにはもうコメディは無く、まさに英傑の引き受けた運命の悲劇が、読む者の胸を打つのだ。
しかし、こんなことにならうとは、最初の2巻つまり「第壱部」と「第弐部」を読んでいる段階では、想像もつかないことであった。
本作の特徴は、作者その人と思わせる「語り手」の、原作「三国志」に対する自由な「ツッコミ」にある。
本来の「三国志」が描くのは「漢(おとこ)の中の漢」である英傑の活躍であり、だからこそ多くの熱心なファンを持つ作品にもなったのだが、本作の語り手は、そんな「三国志」という作品や、そこに登場するヒーローたちに、遠慮会釈なく鋭いツッコミを入れまくるのだ。
要は「それは、普通に考えて変でしょ」とか「それは、いくらなんでも無責任でしょ」と、そんな客観的なツッコミを入れていく。
半ば以上伝説化したヒーローのすることだから「それは仕方ないでしょう」とか、所詮はフィクションに近い人物なんだから「それはそういうものなんだ」といった、偶像崇拝的あるいは、それに発する願望充足的な「忖度」などは一切せず、「こんなもの、真に受けられるものか」「そんなものに素直に酔うことなどできない」というツッコミを呵責なく入れ、あげくの果ては「自分はサンゴクシャンにはなれない人間なのだ」と、そう言い切ってしまう。
ちなみに「サンゴクシャン」とは、シャーロック・ホームズの信者的なファン(マニア)を「シャーロキアン」と呼ぶのに倣った著者・酒見賢一の造語で、要は「三国志」については、普通に考えたおかしなところまで含めて、無条件に全肯定してしまうような人たちのことを指して言う言葉だ。
『 ここで申し上げておかねばならないのだが、わたしはサンゴクシシャンになれない人間となっていることが、はっきりと分かってしまった。『三国志』(※ 中国電視台が製作した決定版ドラマ)随一の名場面、ほんとうは真面目で真剣なシーンであるにもかかわらず、孔明が姿を現した瞬間、思わず爆笑してしまったのである。飯を食っていなくてよかった。製作者の方々、許して下さい。決して役者さんや演出がいけないのではなく、わたしが悪いのである。
(ああ、わたしは今後、もはや普通に『三国志』を楽しめる身体ではなくなった)
と我ながら嘆くのであった。』
(第参部・P22)
「『三国志』随一の名場面」でありながら、孔明が登場した途端に爆笑してしまったのは、一体なぜなのか。
一一次のような事情である。
『 三顧目。
(※ 今度こそはと)易者に吉日を占ってもらう劉備を、人を殺しそうな目で(※ それを)睨む関羽と張飛!
臥竜(※ 孔明)を罵る関羽に『春秋左氏伝』をひいて叱る劉備!
孔明をひっ括りに行くと怒鳴る張飛! 泣き落としで説得する劉備!
案内もせずに去る諸葛均(※ 孔明の同居の実弟)を殺人鬼の目で睨み付ける張飛!
こうしてついに諸葛孔明の登場が‥‥‥(当然のように午睡中である)。
御簾の向こうにいる男の寝姿を直立不動で見つめる劉備!
白羽扇を持ったまま眠っている変な奴!
何故か房の中で焚かれているスモーク!
「起きないなら火をつけてやる」と孔明邸に突入する張飛!
関羽だって剣の柄に手をやり、今にも引き抜きそうである。
待たせて待たせて待たせたうえで、変な詩を吟じながら、酔っぱらいのように起きあ
がる変な奴!
そして、ついに、白羽扇をぶらぶらさせながら登場する綸巾鶴氅に身を包んだ臥竜孔明! その全貌が見えたり! とても二十八歳には見えないぞ。』
(第参部・P21〜22)
「三顧の礼」で有名な、その三顧目の様子である。
劉備は、まだ無名に等しかった孔明の噂を耳にして、こいつはもしかすると掘出し物かも知らぬ、ならば臥龍孔明をわが知恵袋として抱えんとそう思いたち、義兄弟の二人、張飛と関羽を伴って孔明宅に出向く。
ところが、孔明はなんだかんだ理由をつけて、劉備たちに会おうとはしない。辞を低くしてわざわざ2回も出向いたというのに、会おうとしないのだ。
それで、張飛と関羽は、劉備に対して「兄者、あんなどこの馬の骨とも知れぬ若造などに、頭を下げてまで臣従を乞う必要などない。兄者には俺たちがいるし、それで十分ではないか」と、そう苛立っていた。
むろん劉備自身もかなり苛立ってはいたのだが、一度決めたことを易々と撤回する気にはならないし、今度こそは必ず落としてやるぞと、三顧目を敢行したのである。
そして、孔明はというと、焦らすだけ焦らしておいたあげく、わざとらしくも、しらっとした顔で三人の前に姿を見せたのだが、その服装や得物である派手な扇が尋常ではなかったのだ。

私たちは、諸葛孔明いうと、丈高い被り物にぞろりとした着物を着ていて、手には大きな扇を持っているというイメージがあり、それが当たり前だと思っているのだが、孔明のこうした服装は、仙術をおこなう道士などの着ていたものであり、決して当たり前の服装ではなかった。
だから、本作の「語り手」は、その姿や様子をドラマの映像でまんま見せられて、つい爆笑してしまったのである。「なんだよ、この変なやつ!(笑)」と。
つまり、本作の「語り手」は、サンゴクシャン的な「偏った常識」には染まっておらず、「変なものは変だ」という常識的な目で持って、「三国志」の世界を見ている。その「特異な世界観」に浸りきっていないし、浸りきることができない。
だから、ここが変だ、あそこが変だとツッコミを入れることにもなって、このあたりが、コメディと言うより批評的ではあれ、メタな「ギャグ」という印象を与えるため、いきおい「コメディ」に見えてしまうのである。
例えば、文庫版「第壱部」のカバー背面の紹介文では、孔明のことが次のように紹介されている。
『口喧嘩無敗を誇り、いじめた相手には得意の火計(放火)で恨みを晴らす一一なんともイヤな子供だった諸葛孔明。奇怪な衣装に身を包み、宇宙の神形を滔々と説いて人を煙に巻くアブナイ男に、どうしてあの劉備玄徳がわざわざ「三顧の礼」を尽くしたのか? 新解釈にあふれ無類に面白い酒見版「三国志」待望の文庫化。』
つまり「第壱部」「第弐部」あたりの孔明とは、こんな「なにかと問題のある、やりたい放題の変人」として描かれており、劉備も、あるいは張飛や関羽も、クセが強すぎて、性格的にそれなりに問題を抱える人物として描かれているのだ。
そんなクセの強い四人が、やいのやいの言いながらも力を合わせて、あまりにも強大な敵である曹操に立ち向かってゆき、かなりよいところまでは行く(なにしろ、ひとまず三国時代のひとつ、蜀の国を建てるまでになる)のだが、最後は孔明一人が残り、劉備の遺児を建てて、ほとんど勝ち目の無い戦いに赴き、最後は五丈原に散るのだ。
だから、このギャップが胸を打つ。
あんなににぎやかに、それでいてどこか呑気で楽しくやっていた四人が、最後は孔明一人となり、死んでいった兄弟分の意志を継いで、ぼろぼろななるまで戦い、ついに力尽きて死んでいく。
特に孔明は、もともとがこの地上のことにはほとんど興味のない、宇宙と永遠の世界に思いを馳せる、浮世離れした人だった。
それが、自分の変さを棚に上げて「この変わった人たちと、現世の荒波に揉まれて腕試しをしてみるのも一興だ」といった調子で、いわば遊び半分で劉備の軍師となり、最後は、仲間たちの遺志を継いで、らしくない苦労大き孤独な晩年を生き、そして死んでいく。
国家の統一などといった「小さなこと」に興味のなかったはずの孔明が、いつしか仲間たちへの思いを貫くために、自分らしくない生き方をあえて選び、そして志を果たせぬまま死んでいったのである。

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それにしても酒見賢一はなぜ、こんな奇妙な『三国志』を書いたのだろうか?
それは、私が思うには、酒見賢一という人は、英雄豪傑天才偉人のたぐいには興味が無かったためであろう。
『 話は変わるが、実のところ、わたしは「兵」というものが分からない。兵法が分からないのではなく、「兵」という生身の存在が分からないということだ。かれらは歴史に名を残すことはないが、何故か、英雄の指揮のもと、命を懸けて戦ってくれる。それが分からない。親切な人なのだろうか。
この謎(?)は劉邦と項羽の頃から変わらない。どうして兵は、劉邦のために戦ってくれるのか。項羽軍団の中核は楚の兵士であり、項羽は主筋にあたる。あたると言っても、何故、かれらは項羽のために命を投げ出してくれるのか。天下争覇というなんだかよく分からない巨大なことのためにである。
(中略)
これは曹操だって同じである。曹操が旗揚げしたとき持っていた部曲(私兵団)は、曹操の家来のようなものだ。しかし、曹操が勢力を拡大していく中で、曹操の兵となった者はどうなのだろう。まだ曹操が、献帝に近付かなかった頃、曹操の兵となったのはどういう動機からなのか。初期の曹操はかなり無茶な戦いをして、多くの兵が死んだわけだが、かれらはそれでよかったのか。自軍に数倍する袁紹の軍団と戦ったとき、負けても負けても踏ん張り、逃げなかったのはなぜなのか。飯や大金が理由とはとても思えない。奴隷であっても逃げ出すだろう。
これも英雄に指揮されて戦う兵が、史書にロボットかなにかのように書かれるから、分からないのである。十万、二十万と集められた兵らは、なんの意志もうらみもなく、虫けらのように火に焼かれたり、水に沈められたりしたのであろうか。かれらは何故戦うのであろう。』
(第伍部・P18〜21)
酒見賢一の目は、このように奇特なところに向いていたのである。
事実、『後宮小説』の主人公の少女銀河も、『陋巷に在り』の主人公の顔回も、人並みではないものを持っていたとは言え、決して英雄豪傑天才偉人といったたぐいの人物ではなく、むしろ最後まで庶民的な感覚を生きた人だった。まさに「陋巷」に生きたのである。
そして、そんな人たちを愛する人だからこそ、酒見賢一は『三国志』に登場する英傑たちを、サンゴクシャンたちのようには愛せなかったのだろう。
英雄豪傑天才偉人のたぐいだから愛する、というような愛し方のできない人だった。
むしろ、「特別な人」ではない、当たり前に弱さを抱え、決して勝ち誇るような立場には立てない人たちにこそ惹かれたから、酒見版『三国志』は、このような作品に、なってしまったのではないだろうか。
無論、このことをして、本作や著者を批判しているわけでもなければ、否定的に評価しているのでもない。
なぜなら、私もまた、間違いなくサンゴクシャンにはなれない、事実なれなかった人間だからである。
(2026年3月21日)
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