▷ TVドラマ『ツイン・ピークス』(season 1&2)
▷ 映画『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間』
▷ TVドラマ『ツイン・ピークス リミテッド・イベント・シリーズ』(別名『ツイン・ピークス The Return』)
▷ マーク・フロスト著『ツイン・ピークス ファイナル・ドキュメント』(角川書店)
『ツイン・ピークス』のオリジナルシリーズ(season 1&2)を見たのは、1991年の後半であったと思う。
日本では同年4月にWOWOWで放送されたのだが、私の場合はこの放送が大評判になった後、レンタルビデオ店でビデオカセットテープを借りて見た。
まさに今は昔の話なのだが、だからこそ、私とデイヴィッド・リンチとのつきあいは今や35年に及ぶことになるし、なにより私はこの『ツイン・ピークス』のオリジナルシリーズに呪われつづけ、決してそこから解放されることのなかった35年であった。
いつか『ツイン・ピークス』を、自分なりにきちんと論じたい。その上で、自分なりの決着をつけたいと、そう思い続けてきた。
デイヴィッド・リンチの他の作品を見たのも、最終的には、私が『ツイン・ピークス』に感じた「魅力」の正体を、明らかにしたかったからに他ならない。
事実、他の作品を見るときも必ず、『ツイン・ピークス』の魅力の再体験的なものを、私はそこに期待していた。
その意味では、私はデイヴィッド・リンチの良いファンではなかったのかもしれない。すべては、『ツイン・ピークス』ありき、だったからである。
(以下、特記のない『ツイン・ピークス』という表記は、オリジナルシリーズのシーズン1&2を指す)

ではなぜ、私なりの『ツイン・ピークス』論に着手するのが、これほど遅れてしまったのか。
第一には、なにより私が読書趣味の人間であり、活字作品の鑑賞を最優先にしてきたからで、その上その守備範囲が広かったためである。読みたい本が多すぎて、映像作品の鑑賞に割ける時間が、ごく限られていたためだ。
そうでなくても、1冊読む間に5冊買うというようなことを長らく続けていたのだから、未読本の山は、もう20年も前には、これ以上1冊も買わなくとも、死ぬまでに読みきれないほどの量になっていた。
それゆえの読書最優先の方針からすれば、よほどの例外的な作品でないかぎり、映像作品を見る暇など無かったし、そんな時間があるなら、次の本をという生活が、長年続いてきたのである。
つまり、未見の映像作品さえなかなか見ることができないのに、すでに見た作品を再鑑賞するというのは、かなりハードルの高いことであった。
いくら好きな作品でも、内容のわかっているものよりは、見たことのない期待作の方を見たい。これは読書でも同じで、私の場合は、よほどの必要に迫られないかぎり、再読ということをしなかったのである。
だから、『ツイン・ピークス』についても、いつか再鑑賞して、自分なりの作品論を書こうという気持ちがありながら、これまでの35年間、ついに再鑑賞の機会を持つことができなかった。
その前にまず、リンチの別作品を鑑賞して、『ツイン・ピークス』論のための下拵えをしようなどと考えては、あえて遠回りをしていたふしもある。
大切な作品だからこそ万全を期してという気持ちが高じて、いつまで経っても本丸である『ツイン・ピークス』を再鑑賞することができなかった。それをする時は、準備が万端整って、宿願の作品論を書く時だと、いささか力み過ぎていたのである。
だが、そうこうしているうちに時間だけは、どんどん過ぎていく。
『ツイン・ピークス』は、多くの謎を残したままシリーズを終了した、と言うか、カイル・マクラクランの演じた主人公デイル・クーパー捜査官に、魔物が取り憑いたとしか思えない、いかにも気をもたせる描写で幕を閉じて作品であった。

けれども、まさかそれから25年も経って、積み残されていた謎の解明に一定の決着をつけるべく続編TVシリーズが作られようなどとは、想像だにしなかった。
2017年に全18話で放映された『ツイン・ピークス リミテッド・イベント・シリーズ』である(WOWOW放映時の邦題は『ツイン・ピークス The Return』)。
こうなっては、この「リミテッド・イベント・シリーズ」を見るためにも、まずはオリジナルシリーズを再鑑賞しなければならない。
なにしろこの続編が放映された時点でも、オリジナルシリーズから四半世紀が経っているだから、すでに私の中からは細かい部分の記憶はすっかり失われていた。
したがって、そんな状態で、思いもかけなかったご褒美とも言うべき続編シリーズを見るのは、あまりにも勿体ないことだったからである。
だがまただからこそ、さらに『ツイン・ピークス』の再鑑賞は、遠のいてしまった。
次に見る時は、オリジナルシリーズと続編シリーズをまとめて見なければならないことになったから、おのずとその際には、かなりまとまった時間が必要であり、その間は本が読めないし、それに伴う文章書きもできない。
隠居の身の現在とは違い、働いていた頃は当然、自由になる時間は限られていた。となれば『ツイン・ピークス』の鑑賞に、半月なり1ヶ月なりを費やさねばならないかも知れなかったため、それに専念する覚悟がなかなか持てなかった。
だから、「退職したら、その時は」と、そう考えるようになっていた。
そんなわけで、続編である「リミテッド・イベント・シリーズ」だって、DVDを買ってから今回見るまでに、9年もかかってしまったのである。
ではなぜ、退職してすぐにオリジナルシリーズの再鑑賞と続編シリーズの鑑賞ができなかったのか。
退職してからでも、なぜ4年も経ってしまったのかと言えば、それは退職して時間に余裕のできた気の緩みもあって、趣味を「映画」にまで広げてしまったためだ。
すでにあちこちで書いているとおり、退職前にジャン=リュック・ゴダールを初めて見てしまったのである。
ゴダールに感動して映画ファンになったというのではない。
その面白さが理解できなかったからこそ、それを理解したいと半ば意地になり、「映画マニア出身であるゴダールを理解するには、映画史的な教養が必要だ」と、そう考えたので、おのずと映画にどっぷりとハマらざるを得なくなったのだ。
そのせいで、退職前はほとんど読書一本槍だったのが、退職後は読書と映画鑑賞の二本立てになってしまい、期待していた時間があり余るという事態にはならなかった。
新作映画だけなら数も限られているが、古典や名作のたぐいは数限りなく存在していて、その大半は比較的安価なDVDで入手可能だ。つまり、いつでも気楽に家で鑑賞することができる。
本なら、1日1冊程度だが、映画なら1日に3、4本見ることも十分に可能だ。
だが、私の場合は、単に本を読んだり映画を見たりするだけではなく、その後は必ずその作品についての評論文を書くことが、退職後には習慣化していたから、そちらの方にこそ時間が取られてしまった。
映画を見るだけなら2時間で済むが、その評論文を書いた上で、さらに参照画像を揃えるなどしてSNS(note)にアップするならば、それで丸1日を費やしてしまうことになる。
本を読んでレビューを書いてSNSにアップし、映画を見てレビューを書いてSNSにアップし、という毎日は、決して暇だとは言えず、良くも悪くも無駄のない隠居生活になってしまっていた。
働いていた頃には、本を読んだから映画を見たからといって、それについて必ずレビューを書いていたというわけではない。「この作品については是非とも論じたい」と、そんな気になった時だけ書いていたのだ。
だから、退職前には月平均15冊ほどの本を読んでいた。なのに、退職して映画も見るようになり、さらに必ずレビューを書くようになると、読む本は月に10冊前後、見る映画(DVD)も10本前後ということになってしまった。
文章を書いている時間が、格段に増えたからなのだが、むしろこの頃には、単に作品を鑑賞するだけではなく、そこから得てきたものをアウトプットすることにこそ、生きがいを感じるようになっていたのである。
だが、歳をとって老い先に残された時間を考え始めると、これまでの人生のなかで出会った、特に愛着のある作品については、まとまった文章を書き残しておきたいという気持ちも強くなった。
無論、新刊新作のあれこれについても書きたいが、だからといって、過去に鑑賞した特別に愛着のある作品について、何も書かないままで終わるのでは、本末転倒のようにも感じられた。
だから私は、退職後は新作ばかりではなく、愛着のある古い作品についても、再観賞した上でレビューを書くことを始めた。過去の思いに決着をつけ、ひとつひとつ片づけていきたいと考えたのだ。
そのようにして書かれたのが、例えば、『伝説巨神イデオン』論であり、『エースをねらえ!』論であり、『けものフレンズ』論などである。
以上はいずれもアニメーション作品なのだが、これは、これらの作品に対する愛着が特別であり、それがずっと持続したからである。
だからこそ、還暦を過ぎた今になっても「書かないでは死ねない」と、そんな気持ちにさえなったのだ。
そしてこれは『ツイン・ピークス』についても、まったく同じである。
「映画」と言わず、「映像作品」の中でも、これほど愛着を持ち続けた作品も、そうはない。
もちろん、好きな作品、オールタイムベストテン的な作品はあるけれど、「この作品は、自分の血肉の一部になっている」と、そんなふうに感じるほどの作品など、映画やTVドラマなどの映像作品であろうアニメであろうと、あるいは小説や漫画などであろうと、そう多くはない。
だからこそ、それらの作品については、どうしても書き残しておきたいという思いが消えなかったのである。
しかしながらそれでも、『ツイン・ピークス』に取り組む機会を持つことができなかった。どうしても、目先のあれこれに引きずられて、よく言えば大切な作品だからこそ「温存」してしまった。実のところは、つい後回しにしてしまっていたのである。
だが、つい先般、僥倖とも呼ぶ事態が出来(しゅったい)した。この4年間、ほぼ毎日のようにレビューをアップしてきたSNSである「note」の運営から「投稿禁止」の処分を受けてしまい、レビューを書いても、それをすぐにアップするというわけにはいかなくなってしまった。
また、そのために、やむなく自分のサイトを作ることにしたため、そのサイトが完成するまでは、いくら本を読み映画を見ても、レビューを書いてアップするというわけにはいかなくなったのだ。
そこで、「ならば、この機会に、これまで読みたくても読めなかった長編小説や分厚い本、見られなかったシリーズ物の映像作品を見よう」と、そう考えたのである。
そしてついに、『ツイン・ピークス』の再鑑賞を果たした。
当然それだけではなく、続編シリーズも見ることが出来たし、買ってあったマーク・フロスト(『ツイン・ピークス』の共同原作者)の著書『ツイン・ピークス ファイナル・ドキュメント』も読んだ。その上で、当初の予定にはなかった、オリジナルTVシリーズの前日譚を描いた劇場用作品『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最後の7日間』も再鑑賞した。
最後の『ローラ・パーマー最期の7日間』は、公開当時に劇場で見て、期待はずれ感の強かった作品だったのだが、いま見ればおのずと評価も違ってくるだろうと、そう考えたためである。
一一斯くしてついに、私の『ツイン・ピークス』論を書く準備が整ったのだ。
○ ○ ○
とは言え、いまさら『ツイン・ピークス』のストーリー紹介をする気はない。
つまり、『ツイン・ピークス』に興味のない人にまで本稿を読んでいただく必要はない。
本稿は、あくまでも『ツイン・ピークス』のことをひととおり知っているという読者を想定したものであり、肝心なのは「私の解釈を通じて、私の思いを語る」ことなのである。作品紹介文ではないのだ。
だから、個人的な「独自見解」になど興味のない方には、よその作品紹介を当たってもらうことにしよう。
しかしながら、『ツイン・ピークス』のことはよく知らないが、ちょっと興味があるから、拙文を読んでも良いという奇特な方には、ひとまず最低限の予備知識として、Wikipediaくらいは読んでほしいと思う。
だが、私としては、それだけではまったく不十分だ。Wikipediaを読んだって、『ツイン・ピークス』の魅力が伝わるわけなどないからだし、私が本稿で伝えたいのは、Wikipediaで語られるような「外形的な特徴」などではなく、その奥に秘められたマインドに対する、私独自の理解だからである。
したがって、本稿を読みたいと少しでも思ってくれる人がいるのであれば、騙されたと思って『ツイン・ピークス』(オリジナルシリーズ)を見てほしい。
無論、好みの問題はあるにせよ、このシリーズは世界的にヒットしたのだから、ぜんぜんつまらないということはないはずだし、多くの人には、その独自の魅力を感じてもらえるはずである。
そしてその上で、続編が見たいと思った人は、オリジナルシリーズの前日譚である劇場版『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間』と25年後に作られた続編である「リミテッド・イベント・シリーズ」を見てほしい。
ただし、この劇場版と続編シリーズの方は、デイヴィッド・リンチの他の映画作品と同様、クセのある、見る者を選ぶ作品である。
だがまた、そこに違和感を感じたとしても、そこからは『ツイン・ピークス』独自の、無視し得ない異形の魅力が感じられるはずである。
ともあれ、私に言わせればなのだが、一一「『ツイン・ピークス』を知らないなんて、人生における損失である」と、そこまで言っておきたい。
一一さて、前置きが長くなってしまったが、いよいよ本論に入ろう。
○ ○ ○
私は『ツイン・ピークス』によって、デイヴィッド・リンチのファンになった。
『ツイン・ピークス』の感じさせてくれた魅力を「もう一度」と、そのように期待して、リンチの他の作品を鑑賞した。あるいは、『ツイン・ピークス』という作品の理解を深めるために、リンチの他の作品を見た一一と、そう言っても過言ではない。
つまり、リンチにかかわるすべては、『ツイン・ピークス』ありき、だったのである。
だから、正直に言ってしまうと、デイヴィッド・リンチの映画作品に、完全に満足したことは、これまで一度もない。
「なかなかいいんだけど、やはり『ツイン・ピークス』には及ばない」という不満が常に付きまとった。
そのため、私が比較的高く評価するリンチ作品としては、『ツイン・ピークス』と同じくカイル・マクラクランの主演する『ブルーベルベット』、その次に『ロスト・ハイウェイ』、『インランド・エンパイア』『マルホランド・ドライブ』『イレイザーヘッド』という感じになる。
また、逆に評価できなかったのは、『ストレイト・ストーリー』『エレファント・マン』『デューン/砂の惑星』『ワイルド・アット・ハート』ということになるだろうか。
つまり、大雑把に言ってしまえば、『ツイン・ピークス』に似た部分の多い作品が好きであり、一方、オーソドックスあるいはポピュラー性を意識したのかもしれないような作品は、私にはずいぶんつまらないものに感じられた。
私がデイヴィッド・リンチに、そうしたものを期待してなかったためであろう。
しかしながら、前述のとおりで、比較的好きな作品であっても、決して満足はできなかった。『ツイン・ピークス』のような無条件の満足を得ることはできなかったのである。
そこで考えた。
一一なぜ、『ツイン・ピークス』以外は、どこか物足りないのか?
その、ほぼ確実な理由のひとつは、『ツイン・ピークス』には、基本的なところで、マーク・フロストが噛んでいる、という事実である。
私も含めて多くの人は、映画やドラマというと、まず監督(演出家)に注目するし、「監督の作品」だと考えがちだ。
だが『ツイン・ピークス』の場合は、他のリンチ作品とは違い、TVシリーズとして作られた作品である。
つまり、シリーズの各話全部をリンチが直接「演出(監督)」したわけではないし、もとより物語自体、リンチが一人で作ったものでもなかった。
『ツイン・ピークス』は、リンチにとって初めてのTVシリーズであったから、映画とは大いに勝手も違って、すべてを自分のやり方で進めることなど出来なかったと、そう見てもいいはずだ。
まただからこそ、『ヒルストリート・ブルース』というTVドラマシリーズで実績のあった、マーク・フロストと組むことになったのであろう。
『ヒルストリート・ブルース(Hill Street Blues)は、1981年から1987年までNBCで放送されたアメリカのテレビドラマ。警察署を舞台に群像劇として描かれており、エミー賞の最多記録となる作品賞を4回受賞するなど、テレビドラマとして高く評価された作品。』
(Wikipedia「マーク・フロスト」)
つまり、『ツイン・ピークス』の基本的なところは、フロストのTVシリーズ制作の経験を生かしながら、リンチとフロストの二人が共同で作り上げていったものなのである。
たしかに、演出面ではリンチが中心であったが、脚本に関しては、脚本家出身であるフロストの貢献が大きく、決してリンチ一色のものではない。
このように、『ツイン・ピークス』という作品、特に最初のTVシリーズは、リンチとフロストの共同作品という色彩が濃く、言い換えれば、リンチの個性が良くも悪くも一定程度抑制された作品だったのだと言えよう。
例えば、このオリジナルシリーズ(season1&2)は、いかにもTVドラマらしい「ソープオペラ」色が強い。
『ソープオペラ(英: soap opera) は、通常ロングランのラジオまたはテレビのドラマ・シリーズ。メロドラマ、アンサンブル・キャスト、感傷的なストーリーを特徴とすることが多い。』
(Wikipedia「ソープオペラ」)
『アンサンブル・キャスト(英語: ensemble cast)は、映画やテレビドラマなどで、特定の主役を設けず、役割が同じ複数の主要な俳優で構成するキャスティングである。
このようなキャスティングで、複数のストーリーラインが並行的に展開される映画はアンサンブル映画(またはアンサンブル・フィルム)と呼ばれ、2000年代以降はハイパーリンク映画などの用語で説明されることもある。
また、群像劇(ぐんぞうげき)や群集劇(ぐんしゅうげき)も、主役を設けずに複数の登場人物を登場させる点で、アンサンブル映画と同義または類似する物語形式の用語として説明される。』
(Wikipedia「アンサンブル・キャスト」)
つまり、『ツイン・ピークス』の「群像劇」性や「限られた場所の中で、いくつかの筋が並行して進行する」という構成は、シリーズものTVドラマの伝統的な形式に沿ったものであり、2時間で決着のついてしまう映画とは、まったく違う造りのものなのだ。
だから、このあたりは、フロストの経験が大いに生かされたのであろうし、そこがリンチの映画作品とは、『ツイン・ピークス』が一線を画するところなのであろう。
TVシリーズというのは、シリーズの山場あるいは最終回へ向かって、一直線に進むものではなく、各話にそれぞれ見せ場を作り、またシリーズ中でも何度かの山場を作るなどして、視聴者を楽しませるものでなくてはならない。シリーズ完結までの長丁場を、視聴者を飽きさせずに引っ張り続ける必要がある。
このあたりが、おおむね2時間で完結する映画とは、大いに違う点なのだ。
『ツイン・ピークス』という作品に、こうしたTVドラマ的、ソープオペラ的な魅力があったという事実は否定できないはずだ。
具体的に言えば、
『感傷的なストーリーを特徴とする』
といった側面で、『ツイン・ピークス』のローラと三人娘(ドナ、オードリー、シェリー)らの複雑に絡み合う、くどいくらいの恋愛模様は、リンチのものではないと言っても過言ではないはずだ。

役名で左から、ドナ、オードリー、シェリー)
だがまた、美女たちの複雑な恋愛模様とその涙が、この作品に彩りを添えていたというのも否定できないところだし、またそれがあったからこそ、その裏側にリンチの超常的な「闇の世界」を、うまく仕込むことも出来たのである。
つまり、単なる『美女たちの複雑な恋愛模様とその涙』だけなら、それは普通のTVドラマでしかなかったであろう。
だがそこへ、決してテレビ的ではないリンチの「闇の世界」が加わることで、『ツイン・ピークス』という作品は、並のTVドラマを軽々と超えた、厚みのある異形の傑作へと変貌したのだ。
『ツイン・ピークス』の「表の世界(光の世界)」を、マーク・フロストが構築したし、このあたりは、リンチにはやれないところであったろう。
やったとしても、『ストレイト・ストーリー』や『エレファント・マン』のように、不自然なくらいに「感動しにくい感動話」になってしまい、「表の物語」として、素直に楽しむことのできない、妙にクセにあるものになったはずだ。
だがまた、フロストが構築した「表の物語」だけでは、無難に面白い娯楽作にはなっても、結果としての『ツイン・ピークス』のような、普通じゃない(画期的な)作品にはならなかった。
ソープオペラ的な「表の世界」に、リンチ的な底知れない「闇の世界」が裏打ちされたからこそ、『ツイン・ピークス』は、並々ならないコントラストを備えた、異形の作品へと昇華したのではないだろうか。
つまり、フロストが構築した物語の下には、魔性の存在ボブ、あるいはブラックロッジのような地下世界が潜むことになったのである。
したがって、『ツイン・ピークス』という作品は、フロストとリンチのどちらが欠けても生み出され得なかった世界なのだ。
両者がその長所を持ち寄って作った、異様なまでに明暗のコントラストが際立った世界。それが『ツイン・ピークス』の世界だったのである。
まただからこそ、リンチ一人が仕切ることになる映画作品は、フロスト的な「当たり前の楽しさ」は無く、「闇の世界」の側に偏した作品になる。
またその反動なのか、時にリンチは不自然なまでに「光の世界」を描こうとして自身の長所を生かせず、『ストレイト・ストーリー』や『エレファント・マン』といった作品を作ってしまったのではないだろうか。
無論、『エレファント・マン』の場合がそうであったように、鈍感な観客はその宣伝文句のひきづられて、これらの作品を単純に「涙を誘うヒューマンドラマ」だなどと、本気で感動することもできたのだろう。
だが、まともな感受性があるならば、そこにデイヴィッド・リンチの「普通じゃない」暗さ、あるいは歪みを、否応なく感じたはずなのである。
つまり、私が『ツイン・ピークス』に感じた魅力とは、単にデイヴィッド・リンチという作家の発した魅力だけだったのではなく、個性の違うマーク・フロストという作家の個性が加わったところで、化学反応的に生まれたコントラストだったのではなかったろうか。
そしてそうした絶妙はコントラストを、リンチの映画作品にも期待してしまったからこそ、「これは(期待したものとは)違う」という、そんな筋違いの感想を、私は抱き続けることになったのではあるまいか。
しかしだ、今回30数年ぶりに『ツイン・ピークス』(season1&2)を再鑑賞して思ったのは、「意外におとなしい」というようなことであった。
端的に言って、もっと妖しくもっと耽美な世界だと思っていたのだが、思いのほか、まともなのである。これはきっと、最初にオリジナルシリーズを見た後にデイヴィッド・リンチの映画作品の数々に触れ、そのダークな世界観に、ある程度「馴れた」からでなのであろう。
『ツイン・ピークス』を初めで見た際には、その見慣れないダークな世界に、ただ驚くしかなかったし、そうした側面に強烈な印象を受け、その記憶だけが強く残ったのだ。
だが、その後、リンチのダークな世界に何度も触れていく中で、少なくとも、そこに衝撃を受けるというようなことは無くなり、あくまでも、リンチ的なダークに世界として「この表現は、なかなか良い」とか「今ひとつ」だなどと、冷静に見ることできるようになっていったのであろう。
だから、そんな今の目で30数年前の作品を見れば、多少違った印象を受けたのも、それはむしろ当然の結果だったのだ。
やはり二度目の鑑賞は、初見の衝撃には遠く及ばなかった。
だがまたその一方で、美女たちの共演は相変わらず魅力的だったし、例えばエドとネイディーン夫婦の、すれ違いコメディも、あらためて十分に楽しめた。
私は、このオリジナルシリーズで、リンチのダークな世界を知り、それに強い印象を受けたのだが、しかしその一方で、フロストによる明るい世界にも、親しみと愛着を感じていたのである。
○ ○ ○
では、25年後に作られた続編たる「リミテッド・イベント・シリーズ」は、どうであったか?
オリジナルシリーズを再鑑賞したあと、続けて見た際には、正直なところ、う〜んと唸ってしまった。
これはもう『ツイン・ピークス』ではないのではないかと、そう感じたのだ。
特に、シリーズ前半におけるクーパー捜査官の描写は、ちょっとふざけ過ぎているのではないかとまで感じたし、そもそも25年後の世界を描いたこの続編シリーズは、その間の描かれない歴史と、新たに加わった新世代キャラクターたちの多さによって、一見してわかりにくい物語になってもいたのである。
だから、それやこれやで、これは失敗作なのではないかと、そんな印象まで持ったのだ。
この続編シリーズは、大雑把に言えば、オリジナルシリーズでは描ききれなかった、現実世界の裏側に存在する「闇の世界」を中心に描いたものだと、そう言っていいだろう。
オリジナルシリーズでは、チラチラと思わせぶりかつ断片的に描かれた「闇の世界」が、かなり丁寧に描かれており、相変わらず難解ではあるものの、かなり具体的に描かれている。
したがってこの続編は、あきらかにリンチ中心の『ツイン・ピークス』の世界なのだ。
無論、オリジナルシリーズの後、リンチが出世して、マーク・フロストよりも力を持ったから、この25年後のシリーズは、相対的にリンチ色が強くなったというようなこともあるだろう。
だが、そもそもオリジナルシリーズでは説明しきれなかった、ダークサイドの謎に決着をつけるためのシリーズとして作られたこの続編シリーズは、否応なくリンチ主導とならざるを得なかったとも言えるのである。
(※ なお、この「リミテッド・イベント・シリーズ」は、リンチが全18話を演出した)
そんなわけで、オリジナルシリーズとは違いこの続編シリーズは、普通の意味での「ドラマ的な楽しさ」はグッと後退して、リンチらしい「変さ(奇妙さ)」が全面展開している。そしてその象徴が、クーパー捜査官だ。
オリジナルシリーズのラストでは、赤いカーテンの向こう側の「闇の世界」へと消えたクーパー。
その代わりに、クーパーの影でありドッペルゲンガーで、悪の権化である偽のクーパーが、この世にやってきた。
クーパーは向こう側の世界に閉じ込められてしまい、一方こちらの世界にやってきたクーパーは、悪霊的な存在であるボブの変化(へんげ)した姿であるとも言えるし、ボブに憑かれてしまったクーパーその人だとも言えよう。
だがその場合、向こう側の世界に囚われてしまったクーパーとは、肉体を伴わない精神だけの存在なのか、それとも肉体を伴った存在なのか、そのあたりは、最後まで見ても今ひとつハッキリしない。
しかしまたこのあたりは、理屈では割り切れない世界なのかも知れない。
なぜなら、娘のローラを殺したリーランド・パーマーの場合は、一見したところボブに取り憑かれて、その肉体を奪われ、精神だけが向こう側の闇の世界に囚われているというような描写がある。この続編では、リーランドが赤い部屋の椅子に座っているシーンが描かれているのだ。

また、この続編シリーズには、元FBI職員でクーパーの連絡係であったダイアンの「偽者」が登場するのだが、彼女の場合もリーランドと同様で、本来の自分ととり憑いた魔物との間でゆれうごいている様子が描かれており、本物とは完全に切れた、まったく別物としての偽物とは考えにくかった。

つまり、リーランドやダイアンを見れば、彼(女)らの体は一つであり、その一つの体を、ボブのような魔物と本来の心が主導権を奪いあっているような描写になっており、その肉体の主導権を魔物が奪っている時には、本来の精神は赤いカーテンの向こうの異界に閉じ込められていると、そう理解できるような描写になっているのである。
ところがだ、クーパーの場合、この続編シリーズでは、本物のクーパーとそのドッペルゲンガーとしての偽クーパー(悪のクーパー)が、現実世界で同時に存在するといった事態が描かれている。
オリジナルシリーズのラストで、本物のクーパーは赤いカーテンを潜って抜こう側の世界へ行き、そこに囚われてしまうのだが、それと入れ違いで、偽のクーパーがこちら側の現実世界にやってくる。

そして、そこで問題となるのは、この偽のクーパーは、リーランドと同様に、悪霊ボブに取り憑かれたかクーパーであるかのような描写があるにもかかわらず、とり憑いた悪霊と本来の精神が、一つの肉体の中で主導権を争うといった葛藤は存在せず、完全な「悪のクーパー」になっている点であろう。
そして、続編シリーズでは、偽者のクーパーが、四半世紀を経て「闇の世界(≒赤い部屋≒ブラックロッジ)」へと戻るべき時期に来ているにもかかわらず、それに抗って現実世界に居座ろうとする半面、偽者の帰還と入れ替わりに現実世界に戻れるはずだった本物のクーパーが、戻って来ない偽者の現実世界への居座り対抗して、無理に現実世界に戻ろうとした結果、肉体だけが現実的世界に戻って、その精神(心・魂)は赤い部屋にとり残されたまま、という事態になってしまう。
そのため、現実世界に戻った肉体だけの本物のクーパーは、まるで重度の認知症の老人のような知的障害者状態になってしまうのだ。
そんなわけで、この段階で現実世界には、肉体を持った二人のクーパーが存在することになる。
ということは、クーパーの肉体はボブに乗っ取られたのではなく、本物のクーパーはボブが化けた偽者と、こちらとあちらで入れ替わっただけ、ということになろう。
だが、前述のとおり、リーランドとダイアンの場合は、本来の精神と悪霊とが、ひとつの肉体を奪い合っているような状態にしか見えない描写がなされている。
したがって、クーパーの場合は例外的な状況だということなのか、そのあたりがハッキリせず、この表裏二重の世界の構造が、今ひとつ理解し難いものになっているのである。
このあたりは、劇中で何度か描かれる「種」と呼ばれる直径1センチ程の金色の球体が問題となるのであろう。
それはまさに「偽者」を作るための「種」のようなのだが、それでもスッキリとは説明し切れていないように思う。
例えば、偽のクーパーが現実世界で暗躍していた時期、赤い部屋に囚われていた本物のクーパーとはまた別に、現実の世界の方では、クーパーそっくりの“ダギー”ことダグラス・ジョーンズという人物も同時に存在していた。
ところが、このダギーは、特に善人でも悪人でもない、ごく普通の人物として、クーパーとは無関係な生活を送っていたのだが、本物のクーパーの肉体が現実世界に戻ってくるのと入れ替えに、ダギーは闇の世界へと回収されて、赤い部屋で「種」に戻ってしまう。
つまり、ダギーは「種」から作られたクーパーの模造品なのだが、なぜダギーが作られ現実世界に送り込まれたのか、その理由が判然としない。
何らかの理由設定はあるのだろうが、その存在理由が、最後まで判然としないのだ。
ダギーのような善でも悪でもない、「種」によって作られた模倣品が現実世界に存在するのだとしたら、ドラマには登場しなかったものの、リーランドやダイアンの模倣品も、他にも存在していたということになるのだろうか? それとも、クーパーの場合は特別だったということなのだろうか?
ひとまず、この難問はおくとして、次に問題としたいのは、肉体だけがこちら側に帰ってきたクーパーの描写である。
これが前述のとおり、行動的にはほとんど痴呆老人のそれであって、見ていてとても痛ましい。
ユーモラスな描写ではあるのだけれど、あの「白馬の騎士」のごとく颯爽としていたクーパーを、このように描写する必要があったのかと、その極端なギャップのゆえに、そんな疑問を感じずにはいられなかったのだ。

もちろん、シリーズの後半では、ついにクーパーが本来の心を取り戻して(こちらの世界に引き戻して)、颯爽たるその本来の姿を取り戻すし、そのあたりの変貌ぶりは、オールドファンには感涙ものなのだが、そもそも、肉体だけが戻ってきたクーパーの痛ましい姿を、長々と描く必要があったのか、という疑念を禁じ得なかった。
たしかに、そんなクーパーを描いたからこそ、彼をダギーだと思い込んで接するその妻子や保険会社の上司、あるいはダギーたるクーパーと仲良くなるヤクザ者の兄弟といった、実に人間味あふれる魅力的なキャラクターを描くこともできたのだが、しかし、それにしても、これは『ツイン・ピークス』のエピソードとして必要なものなのだろうか。
それなりに面白くとも、所詮は本筋からズレた、余計なエピソードだったのではないかと、そうした印象を私はぬぐいきれかったのである。
そんなわけで、最初に続編シリーズを見終えた際には、なんとも言えない気持ちになってしまった。
ぜんぜんダメだとは言わないが、少なくともオリジナルシリーズとは、かなりテイストの違ったものになっていて、この作品をシリーズの完結編とするのは、スッキリしないものを感じた。
「これはこれで、それなりに面白いけれども、別に作る必要などなかったのではないか。いや、むしろ蛇足なのではないか」と、そんなふうに感じたのである。
だが、その後に、オリジナルシリーズと続編シリーズの間の25年の時を埋める、前後のシリーズ本編では描かれなかった、登場人物たちの背景事情について、続編に登場した女性FBI捜査官タマラ・プレストンの捜査報告書という形式で書かれた、マーク・フロストの筆になる読み物『ツイン・ピークス ファイナル・ドキュメント』を読むことで、一度見ただけではピンと来なかった続編の背景と新たな人間関係を、大筋で把握することができた(例えば、本編では語られない、アニー・ブラックバーンの背景など)。

そしてそうした理解の上に立って、もう一度続編シリーズを見れば、その評価も多少は変わるのではないかという感触があったので、もう一度、続編シリーズを見たところ、二度目ということもあってだろう、前回のような大きな違和感は感じず、これはこれで、オリジナルシリーズとはまた違ったテイストの「面白い作品」だと、そうとらえることが出来るようになった。
また、だからこそその後に、劇場公開で見て以来、興味を失っていた『ローラ・パーマー最期の7日間』までも、あらためて見る気にもなったのである。

オリジナルシリーズから25年後に作られた続編シリーズに比べると、オリジナルシリーズの翌年に作られた『ローラ・パーマー最期の7日間』は、はるかにオリジナルシリーズに違い雰囲気の作品であることは、論を待たない。
すでに書いたとおり、オリジナルシリーズのソープオペラ的な楽しさは無いものの、物語の展開はシャープで、いかにもリンチ映画らしい妖しい作品になっている。
そして、この『ローラ・パーマー最期の7日間』を再鑑賞して、初めてハッキリと意識したのは、続編シリーズにおける演出法の変化である。
まず、続編シリーズではBGMの使用が、最低限に抑えられている。
怪しげな世界の描かれたシーンでは、オリジナルシリーズ登場同様、独特のノイズ的な音響が使われているものの、オリジナルシリーズでよく使われていた雰囲気作りのためのBGMらしいBGMは、極端に減っているのである。
そのため、オリジナルシリーズに比べると、「無味乾燥」に近い乾いた感じの漂うシーンが増えている。いかにもドラマらしい感じの、エモーショナルなシーンが減っているのである。
また、登場人物どうしが向き合ってやりとりした際、会話の間合いがやたらの長い。戦時の言葉が発せられるのが、ワンテンポもツーテンポも遅いのだ。
片方が言葉を発し、それに他方が返事するまでの間(ま)が不自然なまでに長く、それがまた不自然でありながらも、妙にリアリティのある世界を現出している。
通常のドラマのような、かけあい的になめらかな会話ではなく、間としての沈黙にこそ意味が与えられており、思うにこれは、この世における「有効性」的とは違った、言葉では伝わらない何か、言うなれば「思念」のようなものが、そこでは描かれているように感じられたのである。
しかしこの特異な、ほとんど通常の(なめらかな)作劇法を無視した、異様な演出法への変化は、いったい何を意味するのであろうか?
私は当初、そうした感覚を、リンチの「老い」に見た。
痴呆老人のようなクーパーの描写と、それゆえにこそ際立つ、周囲の人々の温かな人間性描写も、この言葉を超えた言葉の間(ま)、あるいは沈黙によるコミュニケーション的なものも、すでにリンチが世間的な効率のよいコミュニケーションを超えたところに、真の人間的コミュニケーションを見るようになっていたからではないのかと、私はそんなことを考えるようになった。
オリジナルシリーズから25年後に作られた続編「リミテッド・イベント・シリーズ」では、当然のことながら、主要キャストはそのぶん老けていたのだけれど、元が美男美女が多かっただけに、その老けた姿を見るのは、いささか辛いという印象が否めなかった。
だが、そうした部分を含めて、リンチはこのシリーズで、若々しさやドラマチックさに代表される「生命力の輝き」といったものよりも、むしろ人間にとって「より大切なもの」を描こうとしたのではなかっただろうか。
そしてその「より大切なもの」とは、「恋愛」や「美貌」や「成功」といった、当たり前の欲望に支えられた「社会的なもの」ではなく、それらを削ぎ落とした後に残るようなものなのではないか。
「言葉にはならない思い」や「老人的な飾らない生」というものに、リンチは重きを置くようになっていたのではないか。
『ストレイト・ストーリー』で描いたような、ほとんど何の曲もない、素朴にまっすぐな人間性にこそ、リンチはこの世界に実在する「悪」と対立することのできる、人間の「善」性を見るようになっていたのではないだろうか。
思い返せば、『ツイン・ピークス』のオリジナルシリーズで、悪に魅入られ、不幸に落ちていく人物の多くは、愛欲にとらわれていたのではなかったか。
それが不倫や売春などのように社会的な批判の対象となるようなものではなくても、過剰な愛情や愛欲というものは、どこかで悪を呼び込むようなところがあり、それとは逆に、老人とか子供とか間抜けなくらいの好人物、つまり、ドラマ的の主役的な位置には立ちにくい人物、社会的な欲望の対象となりにくい存在の方こそが、結局のところ、邪悪なるものとも無縁でいられる確率が高かったのではなかったか?
デイヴィッド・リンチという人は、この世には「邪悪なもの」が実在すると、そう確信していた。
むろんこの世には「善なるもの」も存在するけれども、それと同等に「邪悪なるもの」も存在して、それが時に人に襲いかかる。
何か良くないことをしたから、その罰的なものとして「不幸」が襲いかかるというようなことではない。
何も悪いことをしていなくても、突然「邪悪なるもの」に襲われてしまうという現実が、この世界にはある。
「悪」の存在は理屈ではなく、現実なのだ。
例えば、デイヴィッド・リンチをテーマとしたドキュメンタリー映画『デイヴィッド・リンチ:アートライフ』の中で、リンチはおおむね次のようなことを語っていた。
『リンチがまだ幼かった頃のある夕刻、いつものように表で弟たちと遊んでいると、父が家の中から「もう帰ってこい」と声をかけたのだが、そのまま遊んでいると、道路向かいの暗がりの中から、全裸の女性がよろよろと変な歩き方をして近づいてきたという、そんな「原体験」の話である。
大人の女性の裸を外で見ることなど初めてだったリンチは驚いて動けなくなり、弟の方は恐怖で泣き出したと言う。そして、その女性も道に座り込んで泣き始めたのだそうだが、リンチは「(可哀想なので)何とかしてあげたかったのだが、子供の身では何もできなかった」と、そんなふうに語るのである。
たぶんこれは、近所の奥さんだかがDVにでもあって、家から裸で放り出された(あるいは逃げだした)といったところだったのだろうが、リンチの語り口を聞いていると、(この時に映し出される、リンチの絵画作品のイメージも大きいが)まるで「闇の中から、正体不明の禍々しい異形が出てきた」という感じであり、だからこそ「(可哀想なので)何とかしてあげたかったのだが、子供の身では何もできなかった」という真っ当な説明が、かえって不似合いな(アンバランスな)印象であったのだ。
また、リンチが幸福な少年時代を過ごした土地を引っ越しすることになったその引っ越し当日、端っこに木の植った三角形の庭を挟んだ隣の一家にお別れを言いに行き、顔見知りの母親やそこの子供だけではなく、日頃は顔を合わせないそちらの父親までが出てきてくれたのだが、一一とそこまで話した時、リンチはいきなり言葉を詰まらせ「話せない…」と、説明を断念したりするのだ。つまり、そこにも、何か「暗くて禍々しい障害があった」ということなのだろう。』
▶︎ 追悼 デイヴィッド・リンチ : ぬり絵の外の暗い世界=『デイヴィッド・リンチ:アートライフ』

続編「リミテッド・イベント・シリーズ」でも、何も悪いことをしていない少年が、トラックに跳ねられて即死する、悲劇的なシーンが描かれる。
そしてその現場に居合わせた通行人たちが、息子の遺体をかき抱いて嘆き悲しむ母親の様子を、遠巻きにして痛ましげな見守っているというシーンが、ドラマのストーリー的な必要性からすれば不自然なまでに、長々と描写されている。
なぜ、そんなアンバランスな描写をするのかと言えば、それはたぶん、デイヴィッド・リンチにとってのこの世界は、決して「善人は救われ、悪人は滅ぼされる」というような、都合のいいドラマ的な世界では、断じてなかったからであろう。
無論、リンチ自身も、善の報われることを望みはしているが、あくまでもそれは「望み」であって、現実ではない。
リンチは、こうした過酷な現実から決して目を逸らさず、それでも善の報われるような世界であれと、そう祈っている。
そして、そうした気持ちを象徴するのが、白馬の騎士のごとき潔癖な正義漢であるデイル・クーパー捜査官なのだが、しかし、そんな彼でさえ、純粋に女性を愛した時に限って、邪悪なるものがその邪魔立てをするのだ。
だから、そう考えれば、続編シリーズにおいて、肉体だけがこちらの世界に帰ってきたがために、痴呆老人のごとくなっていた際のクーパーが、最も平穏な幸福に恵まれていたというのは、ある意味で納得できることなのかもしれない。
善も悪も、何物も自分からは欲することのない存在だったからこそ、邪悪なるものは彼に関心を示さなかった。だからこそ彼は、幸福でいられたのではないだろうか。
だからまた逆に、赤い部屋に残してきた心を取り戻し、言うなれば完全体に戻ったクーパーは、だからこそ人のために、邪悪なるものによって歪められた不幸な世界を修正しようと動き始めた。
つまり、主人公らしい活躍を見せたのだが、最後の最後で、やはりそれはうまくいかなかった。
ローラ・パーマーが死なずに済んだ世界を作ろうとしたが、どこかでミスがあって、その善意の試みは水泡に帰し、この新たな物語は、ローラ・パーマーの悲鳴の中で幕を閉じるのである。
一一それにしてもなぜ、こうなってしまうのだろう? どうして、善が報われないのだろう?
だがそれは、この世界がそのようなものだから一一なのではないだろうか。
この世には、愛もあれば善もある。だが、その裏側には、憎しみもあれば悪もある。
それは、どちらか一方が真であり偽であるといったことではなく、両方が同等に併存しているのが、この世の中なのだ。
だから、その現実を認めた上で、より良く生きるためには、愛や正義も含め、多くを求めすぎる欲を捨て、老人のように、静かに生きるしかないのではないか。
一一そんなことを、デイヴィッド・リンチは考えていたのではないだろうか。
彼独特の「不安神経症」的な世界において、最も穏やかに生きられるのは、静かでスローモーな環境だった、ということなのではないか。
そのような世界観が徐々に強化されていく中で、続編シリーズに色濃く見られるような、独特に反ドラマ的な世界が構築され、それが演出にも表れていたのではないだろうか?
こうした観点から続編シリーズ、つまり「リミテッド・イベント・シリーズ」を見るならば、それはオリジナルシリーズのような華やかさを失いはしたけれど、その独自の世界観の深まりを感じさせる、きわめて興味深い作品になっていたと、そうは言えるのではないか。
みんな歳をとって、「美貌」や「軽やかな肉体」を失ってしまった。それは確かだ。
だが、この25年後の続編には、オリジナルシリーズには無かった、哲学的な深まりのようなものが感じられる。
リンチとはまったく違った世界観を持つ私には、その哲学の中身を説明しきることは出来ないし、ほとんど共感することも出来ない。
けれどもそこには、決して侮れない「現実直視の強靭な眼差し」があると、私には感じられるのである。
デイヴィッド・リンチはスピリチュアルな人だったが、この現実世界おける「邪悪なもの」の実在を直視していたことだけは確かだ。
そしてそれは、意外に非凡なことなのである。

(2026年3月19日)
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