▷ 書評:ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(国書刊行会)
本書も、この2月から3月半ばまでの病気療養中に読んでいた本の一冊である。
1月末の手術のための入院を1週間後に控えた時期に、利用していたSNS「note」で「投稿禁止」を食らってしまった。
そのため、それ以降は、本を読んでそのレビューを書いたとしても、それをネットで公開することが出来なくなっていたから、開き直ってその時期は、もっぱら読むことだけに専念していた。
しかし、2月末頃から徐々に進めていた個人サイトの構築に、おおよその目星がついた3月半ば頃から、レビューの執筆を再開したのであった。
こうした事情から、本書の場合は、読了してからレビューを書くことにした昨日まで、いささか間が空いてしまったのである。
しかしながら、だから本書の内容を忘れてしまったのかというと、そういうのとは少し事情が違う。
本作の内容は、そもそも忘れてしまいやすい性質のものなのだ。
だが、こう書いたからと言って勘違いされては困るのだが、本作の場合は、中身の印象が薄いから忘れてしまいやすいというのではない。
そうではなく、中身の混乱したその異常なまでの濃密さにおいて、本作は記憶しにくい内容の作品なのだ。
言い換えれば、筋立てて(論理的に)中身を記憶しておけない作品。そもそも筋が、筋立っていないので、記憶しにくい作品のだ。
例えば私たちは、「夢」の筋を記憶していることは、あまりない。
なぜかと言えば、夢は場面場面はけっこう明晰なものであっても、その連なりの方は筋立って合理的なものではないため、記憶に残りにくいのである。
バラバラに混乱した情報をそのまま記憶するというのは、効率が悪くて難しい。
片付いていない引き出しの中の、どこに何があったかなんて、なかなか記憶しておくことは出来ないのと、これは同じことなのである。
一一つまり本作は、そんな特殊な物語なのだ。
本作を読むきっかけは、友人のオススメである。
私が、本書と同じ「ラテンアメリカの文学」として名高いガルシア=マルケスの『百年の孤独』のレビューを書いてアップした際、その友人がコメントをくれ、その中で、本作の思い出を熱く語っていた(?)ので、「それなら、それも私には合わない作品かもしれないけれど、それでも勉強のために読んでおいてもいいかな」と、そう思ったのである。
と言うのも、私が『百年の孤独』のレビューに書いたのは、「どうも熱帯的な文学、南米ラテン的な、にぎやかで暑苦しい文学は、私の体質に合わないようだ。私の場合は、同じ濃密さを持つとしても、南米ラテン的なものとは真逆の、ロシア文学の方なのではないか」というような、話だったのだ。
つまり私は、『百年の孤独』をちっとも楽しめなかったどころか、読むのが苦痛で苦痛で、読了するのにずいぶん難儀したのである。

無論、ラテンアメリカ文学とロシア文学のどちらが上かといった話ではないし、例外はあれ、総じてラテンアメリカの文学は、私には合いそうもない、という話だったのだ。
だから、本作『夜のみだらな鳥』も、いくらラテンアメリカの文学を代表する傑作のひとつだと言われても、やっぱり私には合わない蓋然性が、決して低くはないだろうと考えた。
しかしながら、好きなものばかりを食べたり読んだりしていると、自分のことがわからなくなってしまう。
自分の苦手なもの、自分には理解できないものに直面する経験をしていてこそ、人は自身の輪郭を確認し、それを知ることもできるのである。
だから、私は本作『夜のみだらな鳥』を、私に合わないかも知らないと、そう承知の上で読んでみた。そしてその結果は、案の定、合わなかったのである。
ただし、本作の場合は、マルケスの『百年の孤独』とは違って、たぶん大半の読者にはわからないはずだし、その意味で楽しめないはずだ。これを楽しめた友人は、たぶん少数例外なのである。
無論、本作の「文学史的な意味や価値」を論じ、その点でのありがたみを語ることは、さほど難しくはないだろう。
なぜなら本作は、わかりやすく実験的であり、発表当時としては、前衛文学の最前線にいた作品なのだ。端的に新しく、まだ類書類作のたぐいは少なかっただろう作品なのである。
だが、それも今となってはそうではあるまい。
本書のような手法で書かれた作品は、もはや珍しいものではなくなっているはずである。
ただし、現在の類書類作はたぶん、良かれ悪しかれ「もっと洗練されている」はずで、そのため、前衛でも難解でも晦渋でもないはずだ。
だがまた、そのことによって、文学としての力を大きく減じさせてもいるのではないだろうか。
エンタメならば、読みやすくないと、そもそも売れないだろう。
だが、文学の場合は、読みやすさとは必ずしも美質だとは限らない。読みにくさには読みにくさの価値があるのだ。スラスラとは読ませず、読者の脚を引っ張り、脚を救うようなことまでするからこそ、その意地悪さは、読者に強烈な印象を残すことにもなるためである。
読者を甘やかせてくれ、そのために勘違いさせてしまうような娯楽小説とは違い、文学の中には、読者をいじめ、そのことで読者を鍛えてくれるような作品も少なからずあって、本作はそんな作品のひとつなのではないかと、私はそのように理解した。
「こんなことするやつがいるんた⁈」という経験をさせてくれただけでも、本作を読んだ意味があったのだ。
だから、そんな作品を、友人が単純に面白いと感じたのなら、それはその友人に、文学的なマゾっ気があったということなのだろう。本作のイケズぶりが、きっと心地よかったのだとしか思えない。
そして、そうした点では、私はまだまだ凡庸にノーマルなので、そこまで本作を楽しむことが出来なかったのであろうと、そう納得した。
私は、強靭なマゾヒズムを、知的な力として、謙虚かつ肯定的に認めるものなのである。
○ ○ ○

さて、そんなわけで本作は、素直に一読しても、それでは理解できない作品である。
そのあたりの事情については、またあとで他人様の力をお借りて説明するけれども、いずれにしろ本作を読むつもりなら、「普通に読めば理解不能な作品」なのだと、そう思っていれば間違いない。その心づもりで読めば、本作の難解さに、無駄に悩まされることもないからだ。
本書の筋が把握できないのは、読者である貴方の力不足が原因なのではない。
だから、本作がもともとそうなるよう書かれた作品、普通には理解し難い作品であるとそう知っていれば、物語半ばで挫折こともなく、「これはこういう作品なんだな」と、安心して読み進められるはずなのだ。
ところが、私の場合は、そうとは知らなかった。そのため、読みながら筋がまったく頭に入ってこず、途中で何度も「あれっ? またどこかを読み飛ばしちゃったかな?」などと、無駄に自分自身を責めていたのだ。
くり返すが、本作は、もともとそういう作品、わかりにくく書かれた作品なのである。
だから、そうだとわかって読めば、そのわかりにくさを無駄に恐れる必要はない、ということにもなるのである。
○ ○ ○
それでは、ここから他人様の力を借りて(いま必殺の)ほとんど丸投げ(サンアタック)で、本作のわかりにくさがどういうものなのかについて、紹介していこう。
わざわざネット上で、参考になりそうな記事なんか探さなくても、以下を読めば、本作がどういう作品なのかなら、スッキリとよくわかるはずである。
それに、他のレビューの多くも、筋を丁寧に紹介していてさえなお、やはり「わからない」と書かざるを得なかったのだから、これから読もうという読者は、そのつもりで本作に挑めばいい。「わからない」前提で読めばいいのである。
一一まあ、それが正しい読み方だとまでは言わないが、少なくとも途中で混乱して投げ出すことにはならないだろう。
真っ白な状態で読み始め、それで楽しむには、本書はあまりにも意地悪な作品であり、それでもそれを純粋に楽しめるのなら、それは、ごく少数の、選ばれた、マゾっ気の並々ならぬ、文学読者なのである。それに限られるのだ。
そんなわけでいきなりだが、本書(国書刊行会「ラテンアメリカの文学」版)の「解説」から、訳者・鼓直の言葉を引用しよう。
『 数度にわたって書き直され、五百ページを超える長篇にふくらんだ『夜のみだらな鳥』は、《ムディート》というロも耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られている。その蜿々と続けられる独白は、しかし、上でも述べたとおり、その生にわたって外部で生起した事柄の忠実な記録ではもちろんない。また、外界の出来事に触発されてその内面に生れたものの正確な想起でもなければ、まっとうで合理的な反応の記述というようなものでもない。
《ムディート》の独白は、いずれが原因であり結果であるかを見定めがたいのだけれど、人格の統一性がしだいに崩壊し失われてゆく人間の、放恣この上ない妄想の産物なのである。独白が進むにつれて理解が深まることを望んでいる聞き手の期待を裏切りつづけていく世界、その内容がますます支離滅裂で不合理なものになっていく世界である。そこでは現実と妄想、歴史と神話、論理と非合理といった対立的な要素が紛然と入りまじっていて、何が確かな事実であり、何が根も葉もない虚構でしかないのか、その間の分別が容易でない。不可能だとさえ言ってもよいくらいだ。
《ムディート》自身による独白のなかに、奔放な連想が呼びこんで来る他の人物の会話もしくは思考が、なんらの指示なしに唐突に挟まることで、言葉とイメージの交響はますます混乱の趣を呈する。事実と夢想とが解きほごし(※ ママ)ようもなく絡まり合って、読者は、語り手のねじれた意識の流れにひたすら身をまかせながら、たぐるべき緒口のおのずから現れるのを待つしかないとさえ言える。
『夜のみだらな鳥』のなかでは時間的および空間的な転移が自在に、実に気ままに行われ、合理的な因果の関係もまた思いのままに無視されている。登場する多数の人物の個個の像も不分明なら、彼らのあいだの関係も曖昧かの矛盾に満ちていて、常に転倒の可能性をはらんでいる。ある不可解な魔的な力が「時間と映像と平面とを混乱させてしまった」(三八ニページ)世界が『夜のみだらな鳥』である。
「どちらが果して真の現実なのか、分からなくなりました。内面の現実でしょうか? それとも外部の現実でしょうか? 現実がわたしの脳理にあるものを造りだしたのでしょうか? それとも、わたしの脳裡にあるものが、この眼前のものを造りだしたのでしょうか? 密閉された息苦しい世界。言ってみれば袋のなかで生きているような感じです」(一九七ページ)という、ひとりの人物の切ない告白どおりの世界である。したがってその腑分けはきわめて困難だが、それでも大づかみなプロットを拾いださなければならないとすれば、それは以下のようなものだろう。細部的な事実も異様な妄想も、すべてがそこに収斂してその意味を、あるいは無意味を読者に明らかにするだろう。』(P458〜459)
続きが気になるところだろうが、あとはご自分でご確認いただきたい。
私の場合は、意地悪で言っているのではないのだ。本作については「あらすじ」を知ったところであまり意味がないというのは、上の「解説」どおりだからである。
ともあれ、本作はこういう『理解が深まることを望んでいる聞き手の期待を裏切りつづけていく世界、その内容がますます支離滅裂で不合理なものになっていく世界』なのだ。
だから、そういう作品とは知らずに読んだ真面目な私は「あれっ? 語り手がさっきまでとは違うな。どこで変わったんだろう。やっぱり斜め読みでは理解できないな」などと、健気にも正直に反省をしたりなどしていたのだ。
一一だが、本作は、そもそも真面目に読めば読むほど混乱するような作品だったのであり、すなわち私は真面目すぎたということである。そうではないだろうか?
ともあれ、本作の「語り手」は、人間の顔が化け物のそれへと切れ目なく変貌する、CGによる画像加工のごとく変化するし、時代も、語られているエピソードも同様に、ほとんど切れ目なくすり変わる。
また、各エピソードの中身も、必ずしも統一性が取れているわけではないから、真面目に読むと、余計に混乱させられてしまい、読み方が悪いのかなんて思ってしまうのだが、そうではない。そうではなかったのだ。
それは作者が、あえてそのように書いているのであり、誰が悪いのかと言うならば、無論それは作者が悪いのであって、私は悪くなかったのである!
一一いや、怒っているわけではないのだが…。
そんなわけで、そのような作品であると、そのつもりで読むのならば、私のように真面目に苦労することもない。まただからこそ、そんな作品なんだよと、あえてバラしてしまったのである。これは、私の善意なのだと思って欲しい。
その上でさらに親切に言うなら、本作の構造は、前に触れたとおりで、言うなれば「夢」みたいなものなのだ。
「夢」の場合、一人称の私すら不安定だ。滅多にないとは言え、私の性別が変わっていたりすることもあるし、年齢が色々なのは当たり前のことだ。
ましてや、時間と空間の合理的なつながりなど、夢に期待する方が間違いである。
だから、本作は「夢」のような構造を持った小説なのだと思えば、腹も立たない。
そもそも、本作ではしばしば夢についての言及があるのだから、作者にもそのあたりの自覚はあったのだろう。
その際たるものが、次の部分なのである。
『「ろくに書かなかったわ」
「そう。残念だな、(※ 小説家としての)才能のある男だったが」
「実をいうと、ヘロニモ、一字も書かなかったのよ。書きたいことは頭のなかに入っていたらしくて、よく一一タ方、愉快な連中がここに集まったときに一一そのプランを話してくれたけど」
「結局、いい作品を書こうと思って‥‥‥ウンベルトの困ったところは、ひとつは、わたしの伝記が文学的な素材だとじていることだった」
「そうなのよ。いつもそこから話を始めたわ。でも、すぐにすべてがデフォルメされちゃうの。彼には簡潔平明に書くという素質がなかったわ。普通のこともひとひねりせずにはいられないのよ。復讐と破壊の衝動みたいなものを感じていたのね。最初のプランをやたらに複雑にし、ゆがめるものだから、しまいには、彼自身が迷路に踏みこんでしまったような感じだったわ。彼が築いていく、闇と恐怖に塗りこめられたその迷路のほうが、彼自身よりも、またほかの作中人物よりも強固でしっかりしていたんじゃないかしら。作中人物はいつも不明瞭で、不安定で、決して一個の人間としての形をとらなかったわ。いつも変装か、役者か、くずれたメーキャップとかいった‥‥‥そうなのよ、現実よりも彼自身の妄想や憎悪のほうが大切で、現実は、彼にとっては否定すべきものだったと‥‥‥」
「面白いね、エンペラトリス。きみは大した文芸批評家だ」
「長いあいだ彼といっしょでしたからね」』(P400〜401)
作中の「彼」はそんな具合だったから書けなかったのだろうが、現実のドノソは、そんなことクソ喰らえというか、むしろそれが面白いと思えたからこそ書けたのであろう。
読者の立場からすればじつに困ったことではあるのだが、そんな作品が、マルケスの『百年の孤独』などと並んで、ラテンアメリカの文学を代表する作品だと言うんだから、本当にラテンアメリカ的気質には困ったものである。
私が、ドミトリー・カラマーゾフであったなら、酔った勢いでドノソのことを縊り殺していたかもしれない。
(2026年4月11日)
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