▷ TVアニメ評:赤城博昭監督『これ描いて死ね』(全12話/2026年)
本作は、一見わかりやすいことを語っているように見えて、じつはそうではない。
だからといって、ことさらに「深い」ことを語っているのでもない。
では何を語っているのかというと、現実をありのままに語っているだけなのだが、しかし、多くの人は.その表面しか見ないから、本作の語る「非凡な一面」には気づきにくいのだ。
先日、少し前にアップした、NHK特別ドラマ『手塚治虫の戦争』のレビューのコメント欄に、「note」時代から時々コメントを下さっていた「magic_ash」さんが、ひさしぶりにコメントを下さり、本作『これ描いて死ね』をオススメ下さった。
『お久しぶりです。
久しぶりにPCを立ち上げて、溜まった迷宮読書感を拝読しております。
で、当該ドラマを見ておらず、手塚治虫自体とはあまり関係ない話で申し訳ないのですが、本年の夏放映された『これ描いて死ね』というアニメがいろいろと貴文の補完になっているような気がしてコメントすることにしました。
なにせ第10話の題名が『この世の90%はカスである』ですからね。
これだけでも気になるでしょ?
もっとも、普段われわれが意識し、もともとスタージョンが意図したであろう内容とはまったくちがった『スタージョンの法則』解釈で、そこが『はっと』させられるところなのですが。
(まあ有り体に言って、キャラの性格やキャラ同士の関係性を浮き彫りにするために、たぶんとわざと『スタージョンの法則』の解釈違いをしている。)』(2026年10月18日)
私は読書を優先するために、長らくTVアニメから離れていた。
結果の保証のない本放映で見るリスクを避け、放送終了後よほど評判になった作品だけを、いずれ機会があればその時に見ればいいと、そんなスタンスで時間の節約をしていたのだ。
だが、この夏に放送された『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』(全12話・モコちゃん監督)と、『天幕のジャードゥーガル』(全12話・山田尚子監督)の2作を、放映前のネットニュースで知って、ひさしぶり第1話から見ていた。
前者は、押井守の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』や、神山健治の『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で馴染みのある作品であり、サイエンスSARUの顔であった湯浅政明が同社を離れて初めての作品ということで、それまで独自色の強かったサイエンスSARUが『攻殻機動隊』をどう扱うのかと、そんな興味があったからだ。
一方、偶然にも同じサイエンスSARUの制作である『天幕のジャードゥーガル』の方は、キャラクターが可愛かったのと、絵本のような美しい絵作りに惹かれて見ることにしたのである。
しかし、見終えてしまえば、どちらもいささか期待外れだった。
『攻殻機動隊』の方は、いつ盛り上がるのか期待していたのに、どちらかと言えば尻すぼみ的に、いつもの情報生命体の誕生の話で完結して、新味に欠けて意外性が無かった。
一方、『天幕のジャードゥーガル』の方は、実質的には全12話をかけて「序章」を語っただけ、といった感じの作品だった。
原作が壮大な作品であり、それに忠実に作ろうとしたのだろう誠実さは理解できるが、こんなことなら、完結するまで待ってまとめて見ればよかったと、そうガッカリさせられたのである。
そんなわけで、ひさしぶりに見たTVアニメ2本が期待はずれだったのだが、その直後、たまたま目について見始めた、しかし本来なら見ないような別の2作品が意外に面白くて、すっかりハマってしまった。
『レッツゴー怪奇組』というホラーコメディと、『正反対な君と僕』という青春ラブコメである。
一一だが、この2作については、いずれ通しで見た後に、なにかしら書く機会もあろうから、ここではこれで止めておこう。
さて、ここまであれこれ書いたのは、要はこのところ、TVアニメづいていたところへ、「magic_ash」さんから本作『これ描いて死ね』をオススメいただき、またちょっと調べて見ると「漫画研究会もの」だとわかったので、絵柄的にはあまり好みではなかったのだが見てみることにした一一と、そんな経緯を説明するためであった。
本作『これ描いて死ね』は、このような経緯のどこが欠けても、死ぬまで見ることのなかっただろう作品だったのである。
だが、それにしても、「magic_ash」さんがコメントされていた、本作における「スタージョンの法則」についての、故意かもしれない独自解釈とは、どういうものなのか?
「SFの9割はカスである。ただし、あらゆるものの9割もカスである」
という言葉について、本作『これ描いて死ね』では、どのような解釈が語られたのか?
たぶん、「magic_ash」さんは、私がこの言葉をよく引用することをご存知だからこそ、『これ描いて死ね』での解釈を、私がどう評価するか、それに興味を持たれて、この作品をオススメ下さったのだろう。
だからこそ、私もそのあたりが最も気になったのである。
(※ なお、私が「スタージョンの法則」を引用する際には、「カス」ではなく「クズ」と言い換えている。その方が、私の伝えたいニュアンスに近いと考えているからだ)
○ ○ ○

さて、では『これ描いて死ね』は、どうであったか?
一一結論から言えば、本作は見るに値する良作である。だが、日本のアニメ史に残るほどの作品ではないだろう。
なぜかと言えば、それは全12話完結の縛りがあったとは言え、本作は、漫研の仲良し四人組がコミティアへの参加などをひとつの目標にしてマンガ制作に励む姿をストレートの描いており、個々の人間ドラマとしては、いささかひねりに欠けるきらいがあったためだ。
主人公であるヤスミンこと安海 相(やすみ あい)は、いかにも主人公らしく『明朗快活な性格で、漫画をこよなく愛する』(※ wiki)少女だが「画力はいまいち」という設定で、それを補完するキャラクターである抜群に絵の上手い少女・藤森 心(ふじもり こころ)は『非常に内気な性格。美術部員でもあり、(略)画力に長ける』というキャラクターである。
つまり、この二人がタッグを組むことで、漫画がそれなりのレベルに達するし、その後の漫研の活動も調子良すぎるくらいに進展するのだ。
それにしても、明るい性格の主人公・安海 相の髪の色は「赤」系で、そのペアとなる内気な藤森 心の髪が「緑」、そして安海 相の友達でマンガは描かないけれど、漫研の立ち上げには参加する、徹底したマイペースの赤福 幸(あかふく さち)の髪の色は「黄色」であり、また、少し遅れて漫研の加わる天才肌の個性派の少女・石龍 光(せきりゅう ひかる)の髪は「薄紫」というのは、いかにもわかりやすい。
ひとことで言えば、「プリキュア」的な役割分担的配置なのである。

この単純さは、安海・藤森・赤福の3人が、漫研を作り、コミティア参加を目指して初めての作品を完成させ、コミティア参加を実現して、さらに前進していくという、動きのある物語を進めるためには、致し方のないところだったのではあろう。複雑な性格を、個々に繊細に描いている暇は無かった。
だが、そのために、全12話の中盤までは、型通りの展開で、いささか物足りなかったのである。
だが、その物足りなさを補ってくれたのが、安海 相の担任教師で、漫研の顧問にもなってくれる、手島 零(てしま れい)の「過去」を描いたエピソードだ。
彼女はその昔、漫画家を目指し、作家デビューして単行本を1冊刊行するところまでは行ったのだが、その先が続かず、漫画家人生に挫折して教師になったという過去を持っている人物である。


安海 相は、もともとは引っ込み思案で友達が作れなかったのだが、そんな彼女が、あるとき地元の伊豆王島(※ 原作者 とよ田みのるの故郷・伊豆大島がモデル)にある漫画専門の貸本屋「寺村貸本店」で初めて借りた漫画が『ロボ太とポコ太』であった。


彼女はこの漫画に熱中し、不器用な主人公のロボ太に助言するタヌキ型のマスコットロボット・ポコ太を自身のイマジナリーフレンドにすることで、ポコ太に励まされて友達を作れるようになったのだが、そんな経緯もあり、『ロボ太とポコ太』は、安海 相にとって特別な漫画であり、「バイブル」となったのだ。


だが、その『ロボ太とポコ太』の作者・「☆野 0(ほしの れい)」が、じつは彼女の担任教師・手島零だということを、貸本屋の主人で、手島の旧友である寺村 七(てらむら なな)がバラしたので、それを学校には秘密にしていた手島は、漫研の顧問を務めざるを得なくなったのである。
そんなわけで、屈託なく前向きに前進していく安海 相らの四人娘の活躍を描くだけでは、一本調子になってしまうところを、手島の「苦しかった過去の回想」物語を挟み込むことで、本作は締まった作品になったと言えるだろう。


どんなに漫画を描くことが好きでも、プロになろうと思えば、楽しいだけでは済まされない。
自己満足では済まされず、多くの人に望まれる作品を描かねばならないから、そこで自分本来の方向性との葛藤が生じて苦しむことにもなるのだが、では、本作の主人公である安海 相は、プロの漫画家を目指すことになるのだろうか?
本作の面白いところは、漫研の顧問になった手島が、事あるごとに安海 相らに対して「学生の本分である勉強を最優先し、漫画はあくまでも趣味の範囲でやるように」と指導するところであろう。

普通、この種の漫画だと、結局のところ主人公たちはプロを目指し、その頂点を目指すみたいな展開になるのだが、本作の場合は、手島がそれを、あらかじめ禁じるのである。
だから、安海 相たちはそれを跳ね除けてまでプロを目指すというような話になるのかどうかが、興味深いところなのだ。
手島が上のように言うのは、もちろん自身のつらい挫折体験があったからだ。


漫画家になるために受験勉強もせず、子供の夢に理解のある両親に、無理と負担をかけ通しだった。
そして、やっとのことでプロデビューはしたものの、結局は挫折した一一と、そんな過去があるから、彼女としては、安海 相たちには、漫画描きを趣味の範囲で止めて、潰しの効くようにしっかり勉強しろと、そう強く助言したのである。
では、安海 相自身はどうなのかというと、とにかく漫画を描くのが楽しく、より上手くなりたいと、今はその一心であり、あるとき、どんな漫画を描きたいのかと問われて「とにかく、自分の納得のいくものが描けるようになりたい。その上で、人にも喜んでもらえる作品が描きたい」と、おおむねそのように語るのである。
つまり、まだプロになるとかならないとか、そんなことを考える以前の、純粋に漫画を描くことの喜びだけを感じている段階なのだ。


しかし、そんな安海 相も、藤森 心の合作とは別に、自分で作画もしたコピー誌をコミティアに出品したところ、一般客から見向きもされなかったため、そこで「人から評価されたい」という欲が出てくる。
ともあれ、次回のコミティアでは、より多く売れるようにとSNSでの宣伝を始め、そこで四コマ漫画の連載を始めたところ、「イイね」が付くことの快感を覚えてしまった。
そのため、いかにしたら「ウケるか」を強く意識しはじめ、ウケ狙いで走るようになった結果、描くことの喜びが感じられず行き詰まることになり、結局は「自分の描きたいことを描く」という原点に立ち返ることになるのである。

つまり、本作は、この手の「漫画家マンガ」には珍しく、ライバルとの闘いを通して「頂点を目指す」みたいな作品にはなっておらず、まず「自分のために描く」ということを基調にした作品なのだ。

プロは目指さないというのではなく、好きなものを描いていった先にプロの道が開けているのなら、それも拒まないというスタンスであって、プロになるために、自分を殺してまで、広く読者にウケる作品を描こうとまでは思わないという、ある意味では、アマチュアマインドであり、創作の原点を重視した作品となっている。
言い換えれば、本作は「漫画バトル漫画」ではなく、「漫画を通して人間的な成長を描く、青春漫画」なのだ。
だからだろう、シリーズの前半は、やや当たり前にすぎた展開も、手島の過去編が生きてきて、後半では、安海 相たちにとって「人にとって何が大切なのか」という、人生論的な側面が掘り下げられる展開になっていく。
そして、その隠れた中心となるのが、安海 相でも藤森 心でも、また手島 零でもない。
注目すべきは、赤福 幸と石龍 光の関係なのだ。
赤福と石龍は、見るからに好対象なキャラクターである。
赤福はいつもマイペースで、漫研を立ち上げながら、漫画を描く気はまったくなく、部室で寝そべって漫画を読んでいられればそれで満足という、普通ならば物語の中心テーマには絡んでこない脇役だろう。

また、普通なら「天才的なライバル」役に止まるはずの石龍が、なぜ安海 相たちの漫研に加わるのかと言えば、実のところ、石龍は漫画の天才であることよりも、人間的な孤独を抱えた少女であったことに、シリーズ後半では焦点が当てられるのだ。

シリーズ前半で既にバレバレにほのめかされていたとはいえ、後半で、石龍 光の母親が、有名漫画家「へびちか」であったことが明かされる。
「へびちか」は、かつて手島が憧れた漫画家であり、手島がデビュー後に伸び悩んでいた時期、担当編集者の計らいでアシスタントをさせめもらうことにもなった、縁の深い人物である。
また、のちに手島とともに伊豆王島に渡り、貸本屋を開くことになる親友の寺村 七は、「へびちか」スタジオの先輩アシスタントとして、その仕事場で知り合った仲だったのである。

だが、そんな因縁のある「へびちか」は、その「優しそうな(話し方の)美人」という外見に似合わず、徹底した「プロ」の漫画家であった。
良い作品を描くためなら、アシスタントを酷使することもまったく躊躇しない、妥協を知らない冷徹さを持った、芸術家肌のプロの漫画家だったのだ。

で、そんな「へびちか」の才能を受け継いだ石龍 光は、尊敬する母から「あなたは、1割に属する人間にならなければならない。9割の側の人間であってはならない」と、そう教えられて育ってきた。
一一ここに「スタージョンの法則」の「後半」が登場するのである。
第10話のタイトルは、次のとおりだ。
『この世の90%はカスである
〜ママより強くなるには「友達」が必要である』
そんなわけで、「へびちか」の娘である石龍 光は、漫画においては天才的ながら、人づきあいが苦手で、友達が作れないで来た。
悪気はないのだが、不用意な言葉で他人を傷つけてしまうので、いつも独りで、生き甲斐である漫画を描いてきた。
勉強さえなおざりにして、高校で1年留年までしていたのだ。

また、事情は描かれていないものの、「石龍」家は、どうやら母子家庭のようである。
光の、母への執着は、そのあたりにも由来するものなのであろう。
だが、そんな母しかいない、どこか孤独な空想家だった彼女が、漫画という同じ趣味によって、初めて友達を作ることが出来た。
ところが、漫画を描かない赤福とは、共通の話題がなく、また赤福は高みを目指そうとするようなこともなく、当たり前の日常を日々楽しんで生きるというタイプであったために、石龍にしてみれば、赤福は「9割のカス(凡人)」の典型に映り、母の教えに従って、ついつれない態度をとってしまう。
しかし.そんな石龍の態度に対して、細かいことには拘らず、万事マイペースの赤福は、拒まれたからこそ「友達になってみせる!」と公言するような調子だったのだが、一方の石龍の方は、赤福を傷つけてしまったと、後で心を痛めていた。
だが、再び顔を合わせると、赤福は何も無かったかのように石龍に接して、一緒に釣りに行こうと誘い、その帰りには自宅の賑やかな夕食に石龍をまねいて、赤福の親らしくいかにも庶民的な両親と三つ子の弟たちに囲まれて、石龍はこれまで知らなかった楽しいひとときを経験したあと、母が独りで待つ家へと帰って行ったのである。


そしてそうした経験から石龍 光は、「1割の選ばれた者であるためには、9割の凡人と馴れ合うような生き方をしてはならない」という、母のストイックな考え方には止まらず、「9割の凡人」とつきあうことの中で得られるもののあることを知るのである。
一方、石龍から「スタージョンの法則」を聞かされた赤福は、じゃあ自分は、間違いなく「9割の方であり、だからみんなから好かれるんだ」と、いつもどおりに何の屈託もなく、そう言って自慢するのである。
○ ○ ○
さて、ここで、本作をお薦め下さった「magic_ash」さんの言う、本作における、故意によるものかもしれない「スタージョンの法則」に対する誤解とは何か、という問題を検討したい。
まずは、確認しなければならないのは、「スタージョンの法則」の本来の意味である。
「SFの9割はカスである。ただし、あらゆるものの9割もカスである」
とは、どういう意味か?
この言葉は、何も考えずにその字面だけを見ていると、「1割のエリートの立場から発せられた、9割の凡人への侮蔑の言葉」だという、そんな誤った印象を受けかねない。
だが、こう書いているシオドア・スタージョン自身が、芸術家肌だとは言え「SF作家」の一人であることを知っていれば、これは決して「9割のカス」を否定するものではないというのが、論理的に理解できるはずだ。
つまり、「あらゆるものの9割がカス」だとするならば、スタージョンの作品の9割もまた「カスである」と、スタージョン自身が認めていることになるからだ。
それに、スタージョンは、そんな「子供向けの通俗小説」として蔑まれてきた「SF小説」を愛したればこそ、自身もSF作家になった人のである。
このように、スタージョンの立場を踏まえれば、もはや「スタージョンの法則」が「9割のカス」を蔑む意図のものでなかったことは、あまりにも明らかであろう。
つまり、スタージョンが、あの言葉で言いたかったこととは、次のようなことなのだ。
「たしかにSF小説の9割は、通俗的なものでしかなく、高尚な文学を愛好なさっている方からすれば、カスと呼んで差し支えのないものなのかもしれません。
けれども、SFと比較して高尚だとされる文学作品だって、じつのところその大半は読み捨てにされ消えていく程度のものであって、芸術作品の名に値する傑作など、滅多あるものではない。
また、人間だってそうだ。文学者だ、芸術家だ、大学教授だと言ってエリートを気取っている人たちのうち、本当に尊敬に値するような立派な人が、一体どれほどいると言うのでしょうか?
一一そのように、現実を公平に見ていくならば、たしかにSF小説の9割はカスかもしれませんが、しかしまた実は、すべてのものの9割がカスなのではありませんか?
私自身も含め、私たちのうちの9割が、つまり、私やあなたが、じつはその9割の側であり、カスである蓋然性の方が高くはありませんか?
なのに、そんなことにも考えが及ばす、偉そうに『SF小説なんてカスだ』なんて言ってるのだとしたら、そんな人こそ、自分のことが何もわかっていない、頭の悪いカスなんじゃないでしょうか?
むしろ私たちは、自分が9割のカスの側の人間でしかないという自覚を持って、9割の側を尊重して生きるべきであり、それが当然の態度なのではないでしょうか」
一一と、そういうことなのだ。
つまり、石龍 光の母「へびちか」は、作家としては超一流であったけれど、しかしそんな自分も、思考の及ばざる愚かな狭隘さあり、またその自覚の無さにおいては「9割のカス」の側だったのであり、だから、自身を「1割の側」だと自明視した上での「スタージョンの法則」理解は、まったくの誤解だったと、そういうことになるのである。
「心の豊かさ」という点においては、「へびちか」こそが「9割の側」であり、あの赤福こそが「1割の側」だったのだ。
そして、その意味では、自身を「9割の側であるし、それを恥じることはない」と考えた赤福は、まったく正しく「スタージョンの法則」を理解していたのだ。
特に学も何もないだろう庶民でしかない両親と三つ子の弟を愛している赤福は、当然自分もそちらの側の人間であり、それは少しも恥じる必要など無いのだと、正しく悟っていたのである。
「1割の側でなければならない」などという、ケチな強迫観念などには囚われない自由を、赤福は自然に備えていたのである。

したがって、本作の視聴者の中で、もしかして、赤福の「スタージョンの法則」理解が「間違っている」と感じた人がいたなら、それはその人の方が間違っていたのだということを、肝に銘じるべきであろう。
なぜなら、その人は「へびちか」と同じ、勘違いの「自己過大評価」としての「エリート意識」に囚われているということであり、その何よりの証拠が、赤福への誤解だからである。
そう。身の程知らずの「エリート意識」など持って、人を外見や社会的な地位によって見誤る愚か者こそが、「人間のカス」なのだ。
例えば、ドナルド・トランプやイーロン・マスクを思い出してみるが良い。
彼らは間違いなく、自身を「1割の側」、いや「1パーセントの側」のエリートだと確信してあることだろう。
たしかに彼らは「財力」や「権力」を持ってはいるだろう。「地位」や「名誉」もあると言えよう。
だが、だからといって、それで「人間のカス」呼ばわりを、免れ得る人間だと言えようか?
一一それを考えれば明らかなのだ。
同じ「カス」であったとしても、私たちは「9割の側」であるカスだとの自覚を忘れるべきではない。
赤福という「不屈のカス」という友人を得て、石龍 光は初めて、母が知らず持ち得なかった「1割の側」に立つことが出来たのである。
「スタージョンの法則」が、語っていたことは、そういうことなのだ。
○ ○ ○
ちなみに、本作の原作漫画は、次のような経緯で書かれた作品らしい。
『 構想
とよ田の前作『金剛寺さんは面倒臭い』(以下、『金剛寺さん』と略)は、ラブコメディにも関わらず序盤でハッピーエンドを提示し、全ページが見開きの回があるなど変則的なコマ割り、作品のテーマを明言する、大団円の後に蛇足といった具合に、王道の真逆を行く作品であった。そのために次の作品としては、漫画の王道としてクラブ活動を題材とした作品や、高校生ぐらいの年代を主題に置いた青春物語が構想されていた。『ゲッサン』編集長からも同作の完結後「『金剛寺さん』はマニアックだっため、次作は広く読まれる作品を」と提案され、女の子4人による部活を題材とした作品の構想に至った。とよ田のわがままと、自由に描くことを許してくれた編集長への恩返しの意味もあった。
折しも同時期に、とよ田が女子高生たちの日常を描く作品『ゆるキャン△』を非常に好んでおり、「きらら系」(『まんがタイムきらら』系列の作品、または女子高生のゆるい部活を題材とした作品の総称)の世界は良い、読者たちも好きだろうし、描いてみたいといった、同作からの影響もあった。
『金剛寺さん』が先述のような作風であったため、本作はフォーマットの決まった王道のエンターテインメントを狙い、自身のエゴを出さずに読者を第一に尊重すること、過剰な背景や説明文を避けて行動で表現すること、読みやすさ、魅力的なキャラクターを心がけて制作された。とよ田によれば、親戚の約90歳のおばが、とよ田の漫画を全部読んでおり、『金剛寺さん』については「あんたの漫画はわからない」と言われたが、本作については「今度のはわかる」と言われたという。
『金剛寺さん』と本作との比較については、とよ田は「前作で全部出し切った、『我』を出しきった気がしたため、次は人のための漫画を描こうと思って、優しい漫画にした」とも語っている。「優しい漫画」にした理由について、とよ田は「世の中ひどいことが多いので、気晴らしになれば」とも語っている。
題材
漫研を題材としたことについては、とよ田は「何か部活モノを、というのが最初の発想で、自分が好きなものを考えたら漫画だった」と語っている。先述のように、「人のため」「優しい漫画に」と構想された一方で、人のためだけに描いていると、中身が空虚になってしまうために、その中央には自身の大切なもの、好きなものとして漫画を配置することで、バランスをとって制作することが構想された。
主人公の漫画制作の動機については、将来的に「アニメ化したい」「商業化したい」などではなく、純粋に「漫画が好きで、描きたい」と設定された。主人公の画力が劣り、画力に長ける別の人物と合作で漫画を描くという手法も、漫画制作を題材とした漫画においては王道とされている。
タイトル
『これ描いて死ね』という特徴的なタイトルについて、とよ田は、漫画の連載前に叱咤激励、鼓舞する言葉の一つと語っている。連載開始前には常に、自分を鼓舞する目的で、漫画に対する目標をノートに書くことが常であり、本作は「漫画の漫画」として目標をノートに書き連ねる内に「これ描いて死ね」という言葉が登場したことで、タイトルに採用したという。』
(Wikipedia「これ描いて死ね」)
本作に先行した作品『金剛寺さんは面倒くさい』が『王道の真逆を行く作品であった。』とは、どういう意味なのか?
それは無論、とよ田みのるという漫画家は、本質的に「自分の描きたいことを描く」作家であり、「我の作家」だ、ということである。
言い換えれば、編集者や読者からすれば「面倒くさい」作家なのだ。
だが、そんなとよ田にも、常識はあるから、自由にやらせてくれた編集長への恩返しのためになら、一定の「妥協」は可能だった、ということだ。
つまり、とよ田の本音としては、かわいい女子高生たちがキャピキャピと仲良く漫画を描いているような漫画など、本来なら描きたくはなかった。
しかし、編集長への恩返しと、何よりも、プロの漫画家を続けていくために、一定の妥協は避けられなかっただけなのである。
だからこそ、本作には、手島零の過去編としての「挫折」が描かれているのであり、心にもない妥協をして、漫画を描くことの喜び捨てる覚悟がないかぎり、プロになんかならなくていいと、そんな想いを込めて、手島に「あくまでも趣味の範囲で」という言葉を繰り返させたのであろう。
言うまでもなく、上のWikipediaで紹介されている言葉は、半分は建前の綺麗事である。
「前作で全部出し切った、『我』を出しきった気がしたため、次は人のための漫画を描こうと思って、優しい漫画にした」
という、とよ田の言葉は、まるっきりの嘘ではないにしろ、そもそも、とよ田がプロの漫画家を続けていく気がなければ、そんな「人のため」の漫画を描こうなどとは考えなかったはずだ。
「人のため」「読者のため」の漫画とは、「売れる漫画」であり「商品としての漫画」であって、それを「綺麗な言葉」で言い換えたものに他ならないのである。
『「きらら系」(『まんがタイムきらら』系列の作品、または女子高生のゆるい部活を題材とした作品の総称)の世界は良い、読者たちも好きだろうし、描いてみたい』
というのも、完全に嘘ではないにしろ、妥協であり、迎合であったことは間違いないはずだ。
しかし、それはとよ田自身、自覚してのことなのだから、私はそれを責めようとまでは思わない。
この資本主義経済の社会において、趣味ではなく、職業として漫画家を選んだ以上、一定の妥協は避けられないことなのだ。
だがまた、だからこそ「だからといってなし崩しにはならないという覚悟」の有無こそが問われる。
そして、とよ田にはそんな「覚悟」があると思うから、私はとよ田を責める気はないのである。
ならばなぜ、こんなことを書いているのかといえば、それは、とよ田のような「我=芯」のある作家に不本意な妥協を強いているのは、「読めない読者」つまり、文字どおり「読めないカス」の存在であり、そのくせ自分では「読める1割」のつもりで、似たような作品をねだる「9割のカス読者」に対して、すこしはその自覚を持てよと、そう言いたかったからなのだ。
『「人のため」「優しい漫画に」と構想された一方で、人のためだけに描いていると、中身が空虚になってしまうために、その中央には自身の大切なもの、好きなものとして漫画を配置することで、バランスをとって制作することが構想された。』
「人のため」とか「優しい漫画に」という言葉は、奥歯に物の挟まった物言いだということに気づける人間になれば、作家に『中身が空虚』な、似たり寄ったりの作品など求めたりはしないし、作家にとっても『大切なもの』をこそ、評価できるようにもなるだろう。
本作アニメ版『これ描いて死ね』の中でも、「(あなたのこの作品は)まだまだだけど、私は好きだよ」とか「商業作品としては厳しいけど、私は好きだよ」といった言葉が何度か登場するが、言うまでもなく、とよ田が本音で求めているのは、そういう言葉なのである。


肝心なのは、自分の描くものが「好きか嫌いか」であって、自分のものではない(借り)ものを描いて、それで評価されるというのは、とよ田の本意ではなかったのだ。
甘いだけの駄菓子を求めるのではなく、「酸いも甘いも噛み分け」られる読者が、作家からは期待されているのだ。
私は、「magic_ash」さんがコメントを下さった『手塚治虫の戦争』のレビューの中で、次のように書いていた。
『「みんなはこんなのが好きかも知れないけど、私はそうは思わない(そうは感じない。なぜならば)」とか「みんなはこの作品の良さがわからないようだけど、私はこの作品が素晴らしいと思う(なぜならば)」と、そのような「価値観」と「評価」を持てる人は、滅多なことでは育たない。
それは、当たり前にしてて、勝手に育つようなものではない、「才能」なのである。』
しかし、そうした読者が育ってこそ、多様な花が咲き乱れるがごとき漫画の世界が実現して、安海 相のような「自分が納得できるものを描く作家」の気持ちと、「いろんな作品を読みたいと願う読者」の気持ちのつながった、豊かな漫画の世界が実現するのである。
漫画の理想というものもまた、そうした意味において、「1割の理想をもって、9割に開かれたもの」でなければならないのである。

(2026年10月26日)
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