古谷博和 『怪異の脳科学 幻聴からUFO、異世界まで』:「きさらぎ駅」の脳科学的解明

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▷ 書評:古谷博和『怪異の脳科学 幻聴からUFO、異世界まで』(ハヤカワ新書)


どうして本書を読んだのかと言えば、それは私自身「幽霊や妖怪」といった怪異現象や、「UFO、異世界」といった超常現象やオカルトなどが子供の頃から大好きだったのと、その一方で、人間の認知能力の謎を解明する「脳科学」にも以前から興味を持ち、両方のジャンルの関連書を、ときどき読んだりしていたからだ。




世の中の「不思議現象」を「科学的」に解き明かしてしまう脳科学と、超常現象やオカルトとでは、相性が悪いのではないかと思う人もいるかもしれない。一一だが、そんなことはない。

私はこの点について先日、荒木優太による哲学入門書 『転んでもいい主義のあゆみ 日本のプラグマティズム入門』のレビューで、そのあたりの機微を説明したところだったので、少し長くなるが、まずはその部分を紹介させていただこう。

『実際、私自身は「現実主義者」であり、だから「宗教とは、願望充足的な幻想にすぎない」と、全否定して憚らない「無神論者」である。

「まあ、幻想にすがらないと生きてはいけない諸君については、やむを得ないから、そんな現実逃避も認めてやろう」という寛容さはあるのだが、宗教をそうした醒めた目で見ているような人間なので、観念的にすぎる哲学も「宗教の一種だろ」と、常に疑っている。
そもそも、近代哲学は「神学」から生まれた、生粋の「宗教2世」なんだし。

しかしながら、幽霊や怪物の存在を信じていないことと、それが好きなこととは、まったく話が別である。

私は、幽霊だの怪物だのUFOだのが、子供の頃から大好きなのだ。だから、それと同じで、オカルトとかも大好きなので、それがかった宗教哲学とかキリスト教神学とかも、けっこう好きだし、前述の小栗虫太郎の代表作『黒死館殺人事件』に登場する、神秘主義がらみの衒学(ペダントリー)なんかは、最高に好きだ。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/ncd74a514ffc6

https://note.com/nenkandokusyojin/n/nec4694f21e9b

そういう「キワモノ」の何が良いのかというと、不思議な世界をお手軽・無難に垣間見させてくれる、「夢を見させる力」があるからだ。

そんなもん、現実にはあり得ないと思っていても、いっとき夢を見せてくれるのなら、それはありがたい趣味的娯楽には違いないからである。

それで、なにが言いたいのかというと、私は、現実主義者なのだが、だからこそ非現実的なものの方に惹かれる、と言うか、「面白い!」と思ってしまう人間だということである。

この世には、神も仏も、亡き両親の霊魂も、そんなものは存在しないというのを、実感として知っているから、そうした無味乾燥な現実からはみ出たもの、存在しえない怪獣や宇宙人のイメージといったところが、かえって「面白い」。
本当に存在すると信じていたら、「面白い」では済まされないのだから、面白がれるのは、信じていないからなのである。』


で、このあたり「矛盾(?)」については、本書著者も「おわりに」で説明をしているのが、私の説明と比較して、どっちに説得力があるか、よければ比較してみていただきたい。

『 おわりに

 大学病院で若い医学生たちを教えていた頃、医学部一年生を対象にした「医学入門」という少人数教育を担当したことがあります。6人ほどのグループにひとつの医学的テーマを与え、1週間かけて自主的に調べてもらい、最後に発表を行うという授業でした。ありきたりのテーマでは面白くないと思い、あるグループにこんな課題を出しました。
「『幽霊をよく見る』『家に幽霊が出て困る』と訴える患者さんが来た場合、どのような病態を考え、どのように対応しますか」
 学生たちは最初こそ戸惑っていましたが、日本人の5人は次第に面白がりながら調べ始め、睡眠障害、幻覚、てんかん、文化背景などについて熱心に議論するようになりました。ところが、その中の一人、某国から来た留学生が突然憤慨しはじめたのです。
 彼いわく、「私は『幽霊』のような非科学的なことを学ぶために、苦労して日本に来たのではありません。もっと科学的なことを教えてください」とのことでした。
 その言葉を聞いた時、私は妙に感心してしまいました。彼個人の考えなのか、それとも彼の国の文化的背景なのかはわかりません。しかし、「幽霊」や「妖怪」といったものを、最初から〝存在しないもの〟〝非科学的なもの〟として切り捨てる考え方も確かにあるのだ、と気づかされたのです。
 もっともこのような姿勢は彼の国に特有のものではなく、日本でも明治維新になって西洋の最新技術を急速に取り入れる中で、「『幽霊』などは一種の気の病だ」、「『妖怪』などといったものは無知蒙味な人間が信じる迷信だ」と断じる風潮が強くなった時代がありました。しかしそのような時代でも落語や人情噺の世界に三遊亭圓朝が現れ、「真景累ケ淵」や「牡丹灯籠」という現在でも演じられる不朽の名作経談を創作し、また民俗学の世界では、柳田国男氏が日本各地の民話や伝承、怪異譚を丹念に記録し、客観的に分析するという新しい学問を築き上げています。これはなかなか日本ならではの現象で、科学化が進んでも、怪異への関心そのものは消えなかったのです。
 これは昭和の高度経済成長期に、SFや科学漫画で手塚治虫氏が時代を席巻していたー方で、水木しげる氏が妖怪漫画で国民的人気を得た現象にもどこか通じているように思えます。「科学を愛しながら、同時に妖怪も愛する」。この一見矛盾するような状況を日本人はあまり矛盾と思わないようです。
 アメリカに留学していた頃、近所の人たちとのバーベキューパティーで、こんな質問を受けたことがあります。
「日本人は無宗教だと聞いたけれど、本当か?」
 私は「無宗教というより、神道と仏教が自然に混ざり合った一見仏教に見える肩仰を持っている人が多いのです。神道は古代ギリシャのような多神教です。 〝Too many godslook like no God(神様が多すぎると、無宗教に見える)〟という感じでしょうか」と答えました。
 すると「仏教を信じているのなら、輪廻転生も信じているのか」と相手はさらに尋ねてきました。そこで私は「かなり多くの人が、どこかで倍じていると思いますよ。現世で悪いことをすると、来世ではゴキブリに生まれ変わって、すぐ踏み潰されてしまうかもしれませんからね」と冗談半分で答えると、今度は真顔でこう聞かれました。
「人間になるか、ゴキブリになるかは、誰が決めるんだ?」
 一瞬言葉に詰まりましたが、私は「大自然(Great Nature)でしょう」と答えました。すると彼は納得したように、
「なるほど、日本人はアメリカ先住民に近い感覚を持っているんだな」と言いました。
 完璧な説明ではなかったかもしれませんが、日本人の宗教観の一端は伝わった気がしています。』(P222〜225)


もちろん、どっちが正しいというわけではないのだが、あえて言えば、私の説明は「個人の実感」に即した説明として「文学的」であり、本書著者の説明は、いかにも「学術的」であると言えよう。

ただし、本書著者は、脳科学の学者であり「脳神経内科医」で、その関係で幽霊だのUFOだのの怪異現象を、脳科学的な見地から研究している人であって、決して「宗教学者」ではない。

一方、私も宗教学者ではないけれど、キリスト教信者でもないのに、宗教研究の一環として「聖書の通読」をしたり神学書を読んだりして、牧師に論戦を挑んだりしたような人間なので、たぶん、「宗教」に関しては、本書著者よりは詳しいはずである。
例えば、本書著者なら、親の葬式も墓参りも、半ば「方便」としてするだろうが、私はそれをしなかった、徹底した「無神論者」なのだ。


ともあれ、本書の著者・古谷博和は、SF小説の出版で有名な早川書房の新書レーベルたる「ハヤカワ新書」の著者らしく、妙に面白おかしく書こうとはせず、脳科学の見地から、淡々と「怪異についての説明」を試みていて、そこに好感の持てる一書となっている。


著者には、本書に先んじて、同じレーベルから『幽霊の脳科学』が刊行されており、言うなれば本書は、シリーズ「第二弾」だったのだが、無論、こちらから読んでも何ら差し支えない内容となっている。
私の場合は、それを知らずにうっかり本書を先に読んでしまったのだが、できれば近々『幽霊の脳科学』の方も読みたいと思っている。

なお、著者には『デジタル脳波判読法』といった、医師向けの専門書もあって、まぎれもない、バリバリの理系学者だ。

 ○ ○ ○

さて、本書の構成を大まかに言うと、次のような感じになる。

(1)各種「怪異現象」についての、脳科学的な解説(第1〜3章)
(2)都市伝説「きさらぎ駅」の、脳科学的解説(第4章)
(3)いまだ脳科学によっては説明しきれていない少数事例の紹介(第5章)



(1)は、3章分をかけて、基本的事例の解説がなされており、この種の本を初めて読む読者には興味深いものだろう。
だが、私にとっては既知の話が少なくなくて、その点で、やや物足りなかった。

なお、(1)で語られるのは、次のような内容である。

第1章 幻聴の世界 ~姿なきまぼろし、誰かが何かしゃべっている~

統合失調症?
てんかんの可能性
どう診断する?
テントの周りを歩き回る足音
コラム① 山の小動物
単なる物理現象かもしれない
姿なき亡霊一一「耳なし芳一」の話
ゴッホの耳切事件との類似点

第2章 UFOによる拉致体験 ~暴力的な「何か」に襲撃される、空中に浮遊する~

ハイパーリリジアシティー(※ 過度の宗教性による幻覚体験)
弘法大師空海の奇怪な体験
さまざまな体感幻覚
空中に浮き上がる、吸い上げられるような感覚
エイリアンに記憶を消される体験
記憶がなくなる
記憶障害と車の運転
結局UFOに遭遇した症例は何だったのか
UFO遭遇譚にも流行り廃りがある

第3章 異形のものに化ける、変わる ~視覚異常~

顔の輪郭が「紅茶に入れた角砂糖のように」崩れていくプリオン病とは何か
CJDに見られる視覚異常
見え方がおかしくなるその他の病気
片頭痛が起こる機序
閃輝暗点が起こる機序
頭痛を伴わない片頭痛?
閃輝暗点が影響したと思われる美術作品
薬剤の影響
コラム② 山姫様の伝説



この目次を見てもらえば、「怪異現象」とされるものが、脳科学でどのように科学的に説明されるのか、おおよその見当はつくだろう。

つまり、平たく言えば「脳は錯覚するもの」であり「機能障害を起こして誤認する場合も多々ある」と、そういう身も蓋もない説明なのだ。
だが、それも科学的な事実なのだから仕方がない。

人間には、存在しない物が見えるし、存在しない音が聞こえる。存在しないものを感じることも出来る。

なぜなら、「見える」とか「聞こえる」とか「感じる(感触がある)」とかいったことは、それがすべて「外部的事実」である場合であったとしても、それを認知するのは「脳内」現象でしかないからだ。


つまり、「見える」のも「聞こえる」のも「感じる(感触がある)」というのも、すべては感覚器によって得られた情報が、電気信号化されて脳に伝えられ、それが脳において「映像」「音声」「感触」といったものに変換復元されて、そこで初めて「認知」するものでしかないのだ。
「見えたもの」や「聞こえたもの」や「感じたもの」などの「対象物」を、「直接」認知しているわけではないのである。

したがって、感覚器が壊れていれば、人はそこに存在するものを「認知」することは出来ない。
つまり、全盲の人には、目の前に存在するものすら見えないし、聴覚障害のある人には、そこに存在している音が聞こえない(音波を感じ取れない)。

逆に言えば、感覚器が機能不全であれば、認知できないばかりが、誤った認知をする場合だってある。
例えば、氷を触って「暑い」と感じる場合などは、感覚器の誤作動か、感覚器からの情報に対する、脳の「誤解」なのだ。

同様に、感覚器に異常が無くても、そこから伝えられた情報を受け止めて認知するための機関である脳が正しく機能していないと、外部を正しく認知することができない。

すなわち、「存在するものが見えない」とか「している音が聞こえない」とか「触っても感じない(匂わない)」とかいった「認知障害」が起こるし、それとは真逆に「存在しないものが見える」とか「存在しない音声が聞こえる」とか「存在しないものを感じる」といったことにもなるのだから、そうであれば、幽霊や宇宙人や怪物を、存在するかのようにありありと、見たり聞いたり感じたりしたとしても、それは何の不思議もないことなのである。

つまり、世の中に存在する「不思議」現象は、すべて脳科学的に説明することが可能なのだ。

だから、京極夏彦のミステリ小説に登場する、神主で拝み屋で古本屋の名探偵、京極堂こと中禅寺秋彦の有名な決め台詞も、

「この世には不思議なことなど何もないのだよ」


ということにもなるのだ。


実際、「謎を論理的に解き明かす」小説であるミステリ小説では、一時期の島田荘司にように、強く「脳科学」に傾いた作家もいた。

島田の『アトポス』などがその典型的な作例なのだが、ただ、この種の物理的な説明(謎の解明)は、たしかに科学的な根拠に裏づけられた説明ではあっても、必ずしもミステリ小説の「論理性」には馴染まないところがあって、そのために、脳科学がミステリ小説に長く援用されることにはならなかったようだ。

例えば、「半魚人を見た」と証言する人がいたとして、その真相が「ひどい皮膚炎に冒された人を見誤った」のだという説明は、科学的にはあり得ても、ミステリ小説的には、面白くもおかしくもないものなのである。

つまり、「現実における説得力のある説明」と、「フィクションであるミステリ小説における説得力のある説明」とは、別物だということなのだ。
言い換えれば、現実におけるリアリティと、フィクションにおけるリアリティは、別物なのである。

だから、本書における、脳科学的な「怪異現象」についての説明も、なるほど「そのように、現実的に説明をつけることができるな」とは思うものの、それは、あまり「面白い説明」ではない。

あれもこれも「脳の錯覚でした」と言われても、「それはそうかも知れないけれど」という感じになってしまう。

ある意味では、こうした脳科学的な説明とは、「何でも切れる万能の刀」みたいなものであり、それで何を切って見せても、別に面白くもおかしくもないのだ。
人は、あまりにも「意外性の無いもの=あまり前なもの」に、興味を持つことは出来ないのである。

(UFOはこういう感じが好き。単なる発光体ではねえ)


だから(1)の第1〜3章で紹介される「怪異現象の脳科学的な説明」は、いささか退屈なのだ。
「なるほど、そう説明できますか」とは思っても、「目から鱗」的な感動は、ないに等しい。

だから、(1)の部分で本書が終わっていたら、いかにも学者さんの書いた本として「真面目で誠実な内容」だとは評価できても、「面白い」とまでは評価し得なかったであろう。

ところが、第4章における、(2)の「都市伝説「きさらぎ駅」の脳科学的解説」は、(1)で個々の事例に対してなされた説明の、言うなれば「合わせ技」として、探偵小説的なまでに面白かった。

「きさらぎ駅」というのは、かつての匿名電子掲示板「2ちゃんねる」上で交わされた、異常体験についてのやりとりのことで、そこでは、存在しない「きさらぎ駅」に降り立つことになる、ハンドルネーム「はすみ」の実況的連続投稿と、それに対するスレッド参加者たちとのやりとりとして、記録されたものである。

『・午前3時10分
はすみ 「先の方に誰か立っています。(※ 皆さんに)助言していただいた通りにして(※ 一向に目的地に行きつかない列車から降りて、線路に沿って歩いたのが)正解だったようです。ありがとうございました。」
参加者 「待て、はすみ!逝くな」「止まれって!やばいよ、それ!」「誰か立ってますって、こんな時間にか?それは妖しいって…」』(P155)


こうしたやりとりが、ライブで4時間30分ほどにわたって繰り広げられ、最後は「はすみ」の投稿が途切れて、その先のことは、誰にもわからなくなってしまった。
そのため、この不思議なエピソードは、「はすみ」が降り立ったという存在しないはずの駅の名前から「きさらぎ駅」と呼ばれる都市伝説となり、映画化までされたのである。

なお、私はたまたまこの映画版『きさらぎ駅』を劇場で見たのだが、映画としては「まあこんなもんか」という程度の出来で、そこでは、現実には語られなかった「結末」が付け足さられていたのだが、それも良かったのか悪かったのか、どっちでも良いようなものでしかなかった。

(映画『きさらぎ駅』より。続編も作られた)

ともあれ、「はすみ」によるこの「きさらぎ駅」体験の実況は、もちろん自作自演の「やらせ」だったのかもしれない。
そして、スレッド参加者の反応も、それを承知での上で、面白がって調子を合わせただけだった部分も確実にあっただろう。

だが、本書著者は、それを「やらせ」だと切って捨てるのではなく、「はすみ」が「本気で語っていた」と仮定した上で、この「きさらぎ駅」体験を、いかにすれば現実的に理解できるのかと、その説明を試みているのだ。

「幽霊を見ました」という申告に対して「それは嘘だ」と否定して済ませるのではなく、その人が本気でそう主張しているのだとしたら、その人が見た「幽霊」とは何であったのかを、脳科学的に解き明かす、というのが、本書著者のコンセプトなのだ。
だから、著者は「きさらぎ駅」についても、同じコンセプトで「謎解き」を試みたのである。

で、これが、まさに古風な探偵小説のようで、なかなか面白かったのだ。

個々の部分的な説明は、(1)でなされた類いの説明にすぎないのだが、不思議な要素が多様に絡んだ「複雑な物語」としての「きさらぎ駅」の謎を、片端から脳科学的に説明し、それで説明し切ってしまうところが、脳科学探偵的なものとして、なかなか楽しめたのである。
一一「そこまでやったら、上等だ」と、そういう感じだったのだ。


だが、科学者として篤実な著者は、決して「すべてが脳科学で説明できた」などとは言わない。

あくまでも「脳科学的に合理的に説明することができる」と、それを実演して見せているだけで、無論、「過ぎ去って既に存在しない過去の事象」の真相は、誰にも知り得ないのだ。

著者は、それを百も承知の上で「でも、こちらの説明の方が、合理的であり、蓋然性も高いでしょ?」と、読者にそう語りかけているのである。

また、そんな誠実な科学者であるからこそ、「今の脳科学的な知見」では、説明しきれない「事例」のあることを率直に認め、それを「今後の課題」として紹介してもいる。それが「第5章」の(3)である。

要は、今は説明しきれなくで、そのうち説明できるのようになると、そう確信していればこそ、まだ説明できない事例についても、隠し立てなどはせずに紹介できるのだ。

本書著者にしてみれば、「お楽しみは、これからだ」と、そんな感じなのであろう。

「こうした事象を体験し、それが一過性のものではなく、一定期間くり返されるような場合には、念の為に医療機関に相談して欲しい」

一一と、そんな医師らしい注意喚起の記述が何度かあるとおりで、いささか真面目すぎるきらいもないでもないのだが、そこがまた愛嬌にもなっている、本書はそんな楽しい知的読み物である。

(2026年10月27日)


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