▷ 書評:尾崎世界観『転の声』(文藝春秋)
知っている人には説明するまでもないことなのだろうが、私は音楽にはまったくうとく、本作を読むまでは、著者の尾崎世界観のことをほとんど知らなかった。
だから、そういう人のために、まずは尾崎世界観について簡単に紹介しておきたい。
尾崎世界観は、ロックバンド「クリープハイプ」でボーカルとギターを担当する、シンガーソングライターである。
2012年に「クリープハイプ」としてメジャーデビューしているが、2016年には半自伝的な小説『祐介』で小説家としてもデビューし、2020年には『母影』、2024年には本作『転の声』で芥川賞の候補となっている。

つまり、元から小説家になりたくてなった人であり、小説家デビューにあたっては、当然ロック歌手として肩書きが役に立ったとは言え、本気で小説を書いており、相応の力量も持っている人だと言えるだろう。
しかし、そんな尾崎世界観の名前を、私が初めて見たのは、芥川賞の候補に名前が挙がった際であったと思う。
たぶん『面影』の時だったのだろうが、「ずいぶん凝ったペンネームだな」という印象で、それはあまり好印象ではなかった。なにしろ「世界観」なのだ。
そしてその後、尾崎がロック歌手だと知って「ああ、そっち系の人か」と思い、その変な名前は、ペンネーム以前に芸名なのだと理解したのだが、やはり、ロック歌手の芸名にしても、妙な名前だという違和感は残っていた。
いま思えば、どちらかと言うと、今どきの評論家的なペンネームだという印象があったからだろう。例えば、「読書猿」とか、そんな感じである。
だが、いずれにしろ、芥川賞作家になった又吉直樹にしろ、前回の直木賞候補になった、漫才コンビ「オードリー」の若林正恭にしろ、やはりどこか「芸能人としての知名度で、下駄を履かせてもらっているんじゃないか」という印象があって、すすんで読む気にはなれなかった。
無論、これは偏見である。
それなりに力量がなければ候補作には選ばれないし、その真の力量は「読んでみなければわからない」。
そのくらいのことは重々承知してはいるのだが、頭ではわかっていても、「第一印象」を消すことはできないし、他に読みたい本が山ほどあるのに、気の進まない本を読んでいる暇などないから、結果的に、そうした芸能人作家たちの作品は、これまで読む機会が持てなかったのだ。
ではなぜ今回、尾崎世界観の『転の声』を読む気になったのかと言えば、それは先日読んだ、小川哲の対談集に尾崎との対談が収められており、そこでの尾崎の話ぶりに好感を持ったからである。
具体的に言えば、尾崎世界観の小説書きに対する本気ぶりが、ナイーブなまでにストレートに出ており、そこに「可愛い」という印象を受けた。
スカしたようなところも無ければ、妙に作家ぶったところもなかった。ただ、純粋に小説で評価されたいという気持ちを、ストレートに表していたのだ。
尾崎は小川哲との対談で、自身の作品について「楽曲の方は相対視することができるが、小説の方は、まだそれが出来ない」というようなことを話していた。
そのウブで一所懸命な感じに好感が持て、「そんな気持ちで書いているのなら、読んでもいいな」とそんな気持ちになった。
また、そこで紹介されていた本作『転の声』については、「これまでの小説では、観客の側からステージの上を描いたものはあっても、ステージの上から観客の方を描いた作品はなかった。でも自分ならそれが書けると思った」という趣旨のことを話しており、たしかにそれは面白いかもしれないと、そう思ったのだ。
というのも、こう言っては何だが、いつも書いているとおりで、私は「熱狂する観客(群衆)」というものが、コンサートのそれであれ、オリンピックや万博やWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)のそれであれ、とにかく好きではなかったからだ。
だから、そんな「熱狂する群衆」を、いつもステージの上から見ている歌手たちは、いったいどんな目で人々を見おろしているのかと、そこに興味を持ったのである。
無論、「ありがたいファンの皆さん」として「無難に」描かれている可能性も十分にあったのだが、しかしそんなものでは文学賞は取れないから、それ以上のものを「彼なら書いてくれているのではないか」と、対談から感じられた、書き手としてのその熱量に賭けてみたのである。
そして、その期待は、期待以上に応えられた。
例えば、主人公がインターネットでエゴサーチをしていて、自身の最近の「声の不調」について語っているファンをみつけ、こんな本音が漏らす。
『あ、フォロワー十四人の雑魚に(※ 俺の)声のことで何か書かれている。あ。この通り、声はちゃんと出ているのに。あ。こいつはフォロワーがたった十四人しかいないのに、よく生きていられるよな。あ。そのことをこいつに直接伝えてやりたい。あぁ、そしたらこいつはどんな顔をするだろう。(※ 俺は)まだ諦めきれず、親指だけを動かして更新とスクロールをくり返す。この苦しみ(※ 評価についての焦燥)をかき消してくれる良い声が、きっとどこかにあるはずだから。そう信じて、更新とスクロールをくり返す。』(P64)
正直、ここまで書いているとは思わなかった。
「こんなことまで書いても大丈夫なのか」と思ったのだ。それほど、身も蓋もないところを書いてくれていたのだ。
無論、本作の主人公は、著者その人ではない。あくまでも、虚構の人物である。
一一だが、いくらかなりとも著者自身をモデルとしているはずだと、多くの読者はそう思わざるを得ないはずだ。なにしろこの主人公は、著者と同じロックバンドの歌手なのだ。
だから、作中の主人公の考えが、そのまま著者である尾崎世界観の考えだと考えるわけにはいかないのだが、だとしても、尾崎自身が一度として考えたこともないようなことなら、ここまで説得力のある描写は不可能だろうとしか思えないものが、そこにはあったのだ。
単純に「会場に来てくれたみんな、ありがとう! 心から愛してるよ!」みたいなものではなく、その真逆に等しい「今日は客の入りが良くない」とか「あの客はウザい。あんな奴がいると、他の客にも悪影響を与えるから迷惑だ」みたいなことを、主人公は考えている。
つまり、私が彼の立場だったら、とうぜん考えるようなことを、主人公は考えているのだ。
他に印象に残っている箇所としては、そうした観客の様子や反応に気を取られて、歌詞が飛んだり、いわゆる「MC」などで言葉に詰まったりした時でも、一部の熱心な女性ファンたちが、主人公のそうした失敗と呼んでもいいような一挙手一投足にまでに「可愛い〜!」を連発するのにも、主人公は「ウザい」と思っているといった、「さもありなん」という描写などがあった。
つまり、いくら自身に対する肯定的な評価だとしても、ミソもクソも一緒くたに「可愛い」などと言われても、気持ち悪いだけで少しも嬉しくはないという、説得力のある「本音」なのだ。
「おまえら、何もちゃんと見てないだろ? ただ、自分が盛り上がりたいだけで、自分自身のために、何でもかんでも肯定しているだけだろ? そんな評価など、少しも嬉しくないんだよ!」と、そんな感情が、正直に表現されているのである。

いちおうメジャーデビューしたとはいうものの、それほど大人気というわけではない自分たちの現状に不満と焦りを感じて、エゴサーチを繰り返しては一喜一憂している、こうした主人公の姿を見ていると、それが単なる「フィクション」だとは到底思えず、つくづく「人気商売に就かなくて良かった」と、私は改めて、そう感じさせられた。
歌手が「音楽家」であったとしても、プロになった以上は「売れなければ」話にならない。
いくら「優れた音楽性(芸術性)」を持っていたとしても、「売れなければ」、誰も見向きもしてくれず、業界から消えていく「敗者」になるしかないのである。
ここで重要なのは、人気商売においては「良い作品を作るから、人気が出る」とは限らないという点だ。
たしかに「良い作品」を作って、それで人気が出て「売れる」人もいるけれども、そうではない者も大勢いる。
つまり、大した力も無いのに、諸事情によって売れっ子になる者も少なくないし、逆に、実力があるのにあまり評価されない者も現に大勢いるのだ。
それが、誰もが知る現実なのである。
だから、プロとしてやっていく以上は、「良い作品を作れば、おのずと売れる」などという原則論だけに固執しているわけにはいかなくなって、「良い作品」や「作りたい作品」ではなく、「ウケる作品」を作らなければならなくなる。
内心では、そうした「不本意な作品作り」に忸怩たる思いがあったとしても、プロとしては「ひとまず売れなければ、話にならない(敗者として消えていくだけ)」なのだから、ひとまず「売れるような作品を作る、売れるような歌手」にならなければならない。
やりたいことをやる、作りたい曲を作りたいように作るのは、何を作っても褒められるような立場になってから、つまり「売れてから」ということになるのだ。
そこで、本作の主人公が気にするようになったのは、「コンサートチケットの転売」状況であった。
常識的な観点からすれば、チケットを高値で転売する行為は、歌手やそのファンや音楽業界にとっては、「他人のふんどして相撲をとって、その利鞘を稼ぐ」たぐいの、迷惑かつ唾棄すべき行為だということになる。
事実、現実の世界では、そういう「転売ヤー」による転売行為が、音楽関係者から厳しく非難されている。
だが、公式には「転売は絶対にダメ」と言っている本作の主人公自身、本音はそんなに単純なものではないのだ。
というのも、「高値で転売される」というのは、数値に表れた、動かぬ「人気の証拠」だからなのだ。
人気のない歌手のチケットは、誰も転売なんかしてくれない。
お願いをしたって、誰も欲しがらないチケットなど、転売のしようもない「無価値なもの」でしかないからだ。
言い換えれば、人気のあるチケットであればこそ高値で転売されるとなると、逆に言えば、高値でチケットが転売されれば、それに連動して、その歌手の人気も上がる、ということをも意味してもいる。
それまで興味のなかった歌手であっても、コンサートチケットが、とんでもない価格で転売されているという事実を知ったら、多くの人はその歌手のことが気になるはずだ。
それまではぜんぜん興味がなかったのに、「もしかすると、自分は重大な見落としをしていたのではないか? 金脈を見過ごしていたのではないか?」と、にわかにその歌手が、その楽曲が、輝いて感じられるようになる。一一のではないだろうか?
このあたりの機微は、私自身「初版本コレクター」であったからこそ、痛いほどわかるのだ。
初版本というのは、その作品(主に文芸作品)が初めて本になった際の「版本」を言い、その中でも特に「第一刷」が珍重される。
つまり、最初に刊行された版本の中でも、最初に書店に並んだ「最初の中の最初」の本(初版第一刷本)である。
だからこそ「初版本」は、その後に「版」を改めて(新しくして)刊行された「文庫版(文庫版)」はもとより、「新版」「新装版」「改訂版」などとは比較にならない、圧倒的な価値を有することになり、そこに「プレミア」が付くのである。
中身はほとんど同じなのに、と言うか、むしろ後版の方が、普通は手が加えられて改良されているものなのに、それでもやはり「最初」の方がありがたい。
それは、かの「ナンバー2ではダメなんですか?(それでも立派なものでしょう?)」という一般論が通用しない、「イメージ」における絶対的な価値を、「最初=ナンバー1」は有するからである。
しかし、一般に「初版本」に価値があるとは言っても、それを欲しがる人がいなければ、そもそもプレミア(割増価値)はつかない。
例えば、どこの書店でも売っているベストセラー作家の新刊の初版本には、プレミア価値など無い。
これは素人が勘違いしやすいところなのだが、どんなに優れた中身の本であっても、いつでも容易に定価で手に入るようなものを、人はプレミアを付けてまで手に入れようとはしない。
手に入りにくいものを手に入れようとするからこそ、その「入手コスト」としてプレミアは付くのである。
したがって、初版本というのは、普通、刊行から数十年経っており、もはや新刊書店では売られておらず、古本屋にも「初版(初刷)本」が滅多に残っていないという状況になって、初めてプレミア価格がつくのだ。
つまり、「希少価値」がついてこそ、それは「プレミア」価値を有し得るようになるのでなる。
だから、どんなに素晴らしい内容の本でも、最初からドカンと大量に刷られて、大量に売れ、それがおのずと古本屋へ大量に流れたような本は、なかなかプレミア価格はつかない。新刊書店には無くても、古本屋へ行けば、どこにでも売っており、だからこそ売り値(古書価)も安いからである。
安くて手に入りやすいものは、ありがたみが薄いから、プレミア価格がつくことはないのだ。
だがまた、売っても大して利益が出ないからと、古本屋がその本を潰して(廃棄して)ゆき、その本が珍しくなった段階で、初めてプレミア価値のつく可能性も生まれるのであって、古ければ良いというものでもないのである。
大切なのは、希少価値と、そして「人気」なのだ。
つまり、いくら希少価値があっても、そもそも欲しがる人がいなければ、それには商品価値が無いのだから、プレミア価値などつくわけがない。
プレミア価値がつくには、希少価値とともに「人気」も必要なのである。
だから、一般にプレミア価格がつく古書というのは、初版本のように希少価値があり、なおかつ内容の優れた本である。
内容が優れているから「人気」があるという場合だ。
したがって、一般に「プレミア初版本」のイメージとは、夏目漱石の『吾輩は猫である』の初版本であるとか、芥川龍之介の『羅生門』の初版本だとかいった感じなるのだが、しかし「プレミア本」の面白いところは、必ずしも内容的に「名作」ではなくても、時には、とんでもないプレミア価格が付くことがある、という現実だ。

つまり、一般的に言って、内容的には大したことはなくても、残存数が極めて少なく、希少性が極めて高いもので、かつ、それを欲しがる人が、残存数よりも一人でも多くいるような場合だ。
例えば、ある大作家のメジャーデビュー前の自費出版本なんかもそうで、自費出版だから、そもそも部数が少ないし、無名の作家の、しかも若書きの未熟な作品だから、売れてもいない。
また、そんな売れなかった不人気本だから、古本屋もすぐに潰してしまって、今ではほとんど残っていない。
しかし、その作家がのちに大人気作家に化けたりすると、その自費出版も欲しいというファンが、少なからずにわかに出てくる。
しかしまた、その時には、その「初版本」は、内容的な価値こそ無くても、その希少性と「(にわか)人気」によって、傑作の初版本をしのぐ高値がついたりすることがあるのだ。
一一つまり、話を本作『転の声』に戻していうならば、「プレミアチケット」というのは、定価でよく売れ、売り切れてしまい、もはや正規のルートでは手に入らないという希少性のあるものであり、なおかつ「それでも、どうしてもそれが欲しい」という人(需要)がそれなりに存在するために、そこで初めて特別な価値としての「プレミア」の付いたもののことを、そう呼ぶのである。
したがって、売り切っただけではダメなのだ。
売り切った上で、さらに欲しい人がまだまだいて、さらに是が非でもそのチケットが欲しいというような人がそれなりにいてこそ、「転売」するに値する「プレミア価値」がつく。
言い換えれば、1億人のファンがいて、その全員に行き渡る1億枚のチケットが売られたならば、そのチケットには、決してプレミアは付かない。
しかし、1,000人しかファンがいなくても、チケットが500枚しか発売されなければ、そのチケットにはプレミアがつくのだ。
無論、興行者は、定価のチケットを売って儲けるのだから、例えば、ファンが1000人いるのなら1000枚前後は売ろうとするだろう。
全員が律儀にコンサートへ行かないとしても、新しいファンや一見さんだって多少はいるだろうから、せいぜい宣伝もして1000枚くらいは売りたいと思い、仮に100枚くらい売れ残っても損はしない価格設定で、チケットを売り出すはずだ。
だが、そんな手に入りやすい、ましてや売れ残りが出るようなチケットにプレミアがつくことはないから、それが転売されることもない。
手に入れようと思えばいつでも手に入るようなものには、プレミアはつかないからである。
しかし、プレミアがつかないものには、ありがたみがない。
そのチケットにありがたみが無いだけではなく、歌手その人にも、あまりありがたみが感じられなくなるのだ。「好きな人が好きなのね」というような印象にしかならないからだ。
だから、本作『転の声』の主人公は、チケットの売れ行き状況を常にチェックしており、それに一喜一憂し、チケットが完売したらしたで、それで満足するのではなく、今度は売れたチケットの「転売状況」をチェックして、また一喜一憂する。

つまり、すでに売られたチケットについての「求む」「譲る」の転売状況をチェックして、「求む」が多ければ喜び、「譲る」が多ければ落ち込む。
「求む」が多ければプレミア価格が高騰し、「譲る」が多ければ、プレミア価格が付かないどころか、定価割れしてしまい、逆にありがたみが失われてしまうからである。チケットにも、歌手自身にも、だ。
そこで、ここが本作としてのフィクションの要(仕掛け)となるところなのだが、「転売の神様」と呼ばれる人物が登場する。
この人は、いろんなもの転売する(転がす)ことによって、それに付加価値(プレミア価値)を与えると同時に、それで自分も儲けるという商売の「達人」なのだ。
チケットも、プレミア価値がつけば、その歌手にも「箔」がつく。
だから、人気の伸び悩みに悩んでいた主人公は、そうした「転売ヤー」に頼ることで、人工的にプレミアを付与しようと、ついに、その「転売の神様」と手を組むことにするのだが…。
一一というのが、本作なのだ。

つまり本作は、「作品(楽曲)そのものの価値」だとか、その「歌手の実力」とかいった実質のところではなく、「イメージ」によって形成される「付加価値(プレミア)」によって、その存在価値を大きく左右される「人気商売」の生々しい「地獄」を、誇張を加えて描いた、かなり「エグい」作品なのだ。
「承認欲求」に憑かれただけではなく、実力があっても「承認」されなければ、そもそも生き残ることのできない「人気商売」に生きる人の、極限的な心理を呵責なく描いた作品なのである。
すでに書いたように、この作品の主人公は、決して作者の尾崎世界観その人ではない。
しかしながら、すべてが作り事でしかないというわけでもない。
ここには、人間の、芸能界の、歌手などの「人気商売」の現実が、誇張されてはいても、たしかに描かれているのである。
だから、華やかな世界の裏側の、人間的な「地獄」に興味があるならば、是非とも本作を読むべきだ。
ただし、本作を読んだ後は、決してそれ以前のような目で、芸能界をはじめとした「人気商売」の世界を見ることが出来なくなるだろう。
私も今更ながら、「本音」を語ることが許されず、白々しい建前だけを真顔で語らなければならないという、そんな非人間的な「人気商売」になど就かないで済んで、本当に良かったと、つくづくそう思わされた。
私は、定年するまで警察官一本の人生だったから、例えば、交通取締りなどの仕事もしたので、感謝されることよりも、むしろ嫌われたり敬遠されたりすることの方が多かった。決して、人に好かれるような職業ではなかったのである。
けれども、それも今となっては、自分に向いていたなと、そう思うようになった。
「嫌うんなら嫌えばいい。あんたに好かれなくても、別に私は困らないよ」と、そう口には出さずとも、少なくとも、そう思っていられる職業に就いていたことは、今となれば、ずいぶんと精神衛生上よかったのだと思う。
若いのに、ちょっとした失敗で、世の中から総攻撃を受けた挙句、面も割れているのに、その業界をさらねばならない人たちなどを見ると、「人気商売」の恐ろしさを思わずにはいられない。
畢竟、「好かれることにこそ価値のある」世界とは、言い換えれば「嫌われたら、そこでゲームセットだよ」という世界であり、そういうことなら、それはあまりにも他人の「趣味的な判断(評価)」まかせの、「気まぐれで残酷すぎる世界」としか呼びようがないのだ。
(2026年10月24日)
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