ドナルド・トランプという歴史的な人物

SNS「note」に書いたレビューに、先日ひさしぶりに「スキ」(イイネ)をいただいた。一昨年(2024年)の6月に書いた、スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』についての評論である。

それで、その記事を読み返してみたところ、「今や昔」と言うほかないような記述があって、われながら感慨深いものがあった。
一一どういうことか。

私はそのレビューで、ありがちな「政治家たちの建前」の話、要は、政治家というのは、人前ではご立派なことを宣うけれど、本音の方はかなり疑わしいと、そんなごく「常識的な認識」を語り、それを前提として『博士の異常な愛情』という作品を論じていたのである。

だが、そんな議論の前提が、今やすっかり揺らいでしまったのだ。

『今となっては、「東西冷戦」という言葉も「相互確証破壊」も、いちいち説明しなくてはならないのだが、要は、世界が、アメリカを盟主とする「自由主義」陣営(実は「資本主義自由経済」陣営)と、ソ連を盟主とする「共産主義」陣営(正確には「社会主義」陣営)の二派に分かれて、どちらの考え方が世界を制するかで、争っていた時代の話である。

言うまでもなく、アメリカとソ連は、第二次世界大戦の戦勝国であり二大大国だったのだが、問題は、その「理想社会」のビジョンが、真逆だったことだ。

アメリカ側の「自由主義」とは、要は「自由主義経済」のことであり、その上での「個人の自由」を保証するというものだった。つまり、個人がその能力を自由に発揮して経済活動を行い、強い者が成り上がり勝ち残っていく、実力主義的な「個人主義的に自由な社会」を目指すものである。
一方、ソ連の「社会主義」とは、「個人」よりも「社会」全体の利益を目指すものであり、言うなれば「国家」が「個人」の活動に介入してコントロールすることで、弱者にも富の配分が適切になされる「平等な理想社会」を目指し、最終的には「個人による経済活動」ではなく、「国家による計画経済」に個人を組み込む「統制経済」としての「共産主義経済」の実現を目指していたのである。

で、アメリカとしては、「社会主義」や「共産主義」といった考え方は、アメリカ的な「個人の自由」を制限し、「優れた者、努力した者が、成功と富をつかむ」という「アメリカン・ドリーム」否定する「悪平等」だと考えられた。
一方、ソ連の「社会主義」とは、もともと「自由主義経済は、社会を(資本家と労働者に)二分する経済格差を生み出す、弱肉強食の非人間的な制度」であるとして否定していた。だから、ゆくゆくは世界を、「共産主義」社会へと根本的に転換(革命)しなければならない、と考えていたのだ。
また、「社会主義」や「共産主義」というのは、自分さえよければ良いという「個人主義」的な「抜け駆けを許さない」ことを大前提として成立するものであり、まずそれを実現してこそ十全に機能する制度であるため、ゆくゆくは世界全体を「社会主義国」にした上で、最終的には、全世界的な「共産主義(経済)革命」を実現しなければならないと、そう考えていたのである。
一一つまり、両者は「個人主義」と「社会主義」の対立という、譲れない根本的な対立を抱えて、世界の「二大勢力」として対峙していた。それが「東西冷戦」なのである。』

「スタンリー・キューブリック監督『博士の異常な愛情』:踊る阿呆を見る阿呆」より)


これが「東西冷戦」の基本的な説明なのだが、しかしその現実においては、「自由主義陣営」であれ「社会主義陣営」であれ、政治家たちの語ることは、ほとんど手前味噌な「きれいごと」でしかなく、実際は、いずれの陣営であれ、権力者層が自分たちの既得権益を守るため、保身のために、国民からの支持を調達すべく、「正義は我にあり」という「きれいごと」を臆面もなく語って、その本音を偽っていたのである。

ところがだ、今のアメリカ大統領ドナルド・トランプには、こうした「建前としての正義」というものが無いに等しい。

かつてのアメリカでさえ、つまり冷戦時代のアメリカでさえ、南米はじめとした世界の社会主義国を転覆するためには、CIAなどによる謀略工作によって、裏から体制転換を企てたりしていたのだが、今のトランプとなると、いきなりベネズエラに軍隊を送り込んで、政治指導者を拘束したうえで殺してなんてことをしてしまった。
こんな身も蓋もない乱暴なやり方を見せられては、ベネズエラの次の政治指導者も、アメリカに逆らうわけにはいかないだろう。単純に殺されたくはないからである。

そして、これで味を占めたトランプは、今度はイスラエルと組んでイランに対して、国際法違反の先制攻撃を仕掛け、国家の指導者であるハメネイ師や政治指導部の十数名をいきなり爆殺してしまった。

もちろん過去のオバマ政権時にも、事前通告なしにパキスタンに特殊部隊を送り込んで、9.11米国同時多発テロ事件を引き起こしたアルカーイダの指導者ウサマ・ビン・ラディンを暗殺したということはあった。

しかし、無論これは「先制攻撃」などではなかったし、「国家体制の転覆」を意図したものでもなく、単に敵対的なテロ組織の頭目を、他国で殺したにすぎない。
ただ、他国に暗殺部隊を送り込んで殺したというところが、国際政治的に問題視されただけだったのだ。

ところが、今回のベネズエラに対する体制転覆のための軍事行動や、イランに対する先制攻撃は、ビンラディン暗殺時の「主権国家の主権侵害」とは、明らかに桁違いの話だ。これはもう「帝国主義的な侵略戦争」に他ならない。

実際、対ベネズエラや対イランの軍事行動は、自衛のためという大義名分を掲げてはいても、それをそのまま鵜呑みにするような人はいないし、そもそもが国際法違反なのである。

そして、それがわかっていながら、それでもやってしまうのは、結局のところ「勝てば官軍」であり「力が正義だ」という本音を、隠すつもりもないからだ。

トランプは大統領選にうって出るにあたって、『Make America Great Again』という言葉をキャッチフレーズとして自身を売り込んだのだが、この言葉の「グレート(偉大)」が意味するのは、当然のことながら「倫理的な偉大さ」などではなく「有力者(実力者)」という意味であり、要は、他者を力でねじ伏せて、好きなことができる立場にある、という意味でしかない。

思えば、こうした「力の正義」というのは、私たちが子供時分に見たテレビアニメや子供向けヒーロードラマなどに登場した、憎たらしい悪役たちが語るものであった。
しかしそれは、アメリカ社会においてさえ、そういうものでしかなかったはずだ。

(公式の肖像写真のようだが、わざと威嚇的な表情を作っているようにしか見えない悪役づらだ)

本音でなら「力こそが正義だ」と考えている人も、少なからいるだろう。特に社会的な有力者の中には少なくはないはずで、だからこそ彼(女)らは成り上がる努力をし、成り上がって見せたのである。

だがまた、それを露骨に口にするのは、あまりにも外聞が悪く恥ずかしいことでもあるから、どんな悪党でも、人前ではなかなかそんな本音を口にすることはなかったのだ。

ところが、トランプはどうか?

敵対者への恫喝といった、政治的な思惑含みの言葉だとは言え、「世界最強の軍隊」だとか「イランを3日で黙らせる」とか、臆面もなく自らの「力」を誇示することを少しも躊躇せず、それを恥だとも思っていないのである。

「正義のために、やむなく実力行使をする」という建前はかなぐり捨てられて顧みられず、「力のある者が、弱い者を支配するのは当然なのだ」と、そんな本音を少しも隠そうとはしない。

よく言われることだが、ドナルド・トランプという人はこのように、素朴な勧善懲悪もののドラマに登場する「わかりやすい悪役」そのままの人物なのである。

キューブリックの『博士の異常な愛情』にも、リッパー准将という見るからにコワモテとタカ派の軍人が登場し、これが狂を発して、ソ連への核攻撃命令を出してしまうのだが、このリッパー准将とトランプ大統領に、いったいどれほどの逕庭があるだろうか?

(『博士の異常な愛情』のリッパー准将)

それに、そもそもリッパー准将は、フィクションの中の「誇張されたキャラクター」でしかなく、キューブリックだって、このまんまの人物が実在すると考えて、リッパーを描いたわけではない。リッパーは、あくまでもタカ派軍人の誇張されたパロディだったのである。

(ちなみに、リッパー准将のモデルとしては、先日NHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」で取り上げれた、カーティス・ルメイ空軍大将も含まれるだろう。彼は冷戦時においても核兵器の使用を辞さず訴えたが、実際にそれを使うことはしなかったし、使えなかった)

(カーティス・ルメイ)

だが、いずれにしろフィクションのリッパー准将とは違い、ドナルド・トランプの場合は、タカ派政治家の「パロディ」などではない。正真正銘、本物のアメリカ大統領なのだ。それが、あの男なのだ。
パロディよりも更に非現実的なほど、わかりやすい「悪役キャラ」として登場してしまったのが、今の私たちが直面する現実なのである。

一一そして私たちは、もはやそんな現実にさえ馴れ始めている。

(ヘグセス国防省長官。正確には「戦争省長官」。省庁名をそのように変更したからだ)

私たちは、第二次世界大戦時のヒトラーやソ連時代のスターリンのような、わかりやすい独裁者としての歴史的な「悪役」は、もはや二度と登場することはないだろうと、心のどこかでそう思っていた。

ロシアのプーチンや中国の習近平にしたところで、いちおうは表面を取り繕い、「建前の正義」を語ることはやめたりはしていない。

だが、トランプはその程度の建前にすら配慮せず、臆面もなく「力の正義」を行使している。
プーチンや習近平にしてみれば「あんなキチガイと一緒にしないでくれ」と言いたいところであろう。

また、少なくともプーチンや習近平なら、自身の死後の「名誉」ということも考えている。
敵対国でどんな語られ方をすることになろうと、少なくとも自分は自国の発展に尽くした偉大な指導者だったと語り伝えられるようになることを望んでいるというのは、間違いのないところだろう。

ところが、トランプはそうではない。
生きている間さえ、好き勝手に権力をふるえるのならば、死後になんと言われようと、そんなことは毛ほど気にしてはいないだろう。
自身の権力保持のための人気取りはしても、権力さえ保持できるのなら、他人からの評価や評判など、まったく気にしてはいないのである。

つまり、トランプには「名誉」の意識がなく、ただ「力」が欲しいだけなのだ。
他の者が、彼を心から尊敬して、彼を褒め信従してくれるといったことを望んでいるのではなく、本音がどうあれ、ただ自分に絶対服従するのなら、それでいいという実利一点張りの考え方なのだ。

この身も蓋もない「力の思想」とは、いったい何なのだろうか?

私が思うにこれは、人間の生物としての先祖がえり(退行)である。文字どおりトランプは「人間の皮を被った獣」なのだ。

しかし私は、この言葉でトランプを貶したいのではない。
あくまでも、ドナルド・トランプという異常者の本質を正確に表現したいと思って、上のように表現しただけだ。


もはやトランプは、理性的な批判でどうにかなるような存在ではない。だからこそ、悪口さえも意味をなさない。
考えてみて欲しい。犬や猫に対しては、論理的な批判はおろか、本気で「ばーか、ばーか!」などと言う人がいないのと、これは同じことなのである。

だから私がここで言いたいのは、人間というのは意外に進歩しない、という事実の確認なのだ。

私たちは、もはや第二のヒトラーやスターリンなどを生み出すことはないだろうと、心のどこかでそう信じてきたのだが、実際には、それに勝るとも劣らぬ、トランプという狂人を生み出してしまった。

これはもう、狂人が悪いというよりは、私たちの認識が甘かったとしか、言いようがないのではないだろうか?

私は、2年前の『博士の異常な愛情』のレビューにおいて、リッパー准将のような人物は、そのままでは実在しない誇張された人物であると論じた。そのつもりで書いた。
だが、それが現実に対する認識の甘さだったことを、いまや思い知らされている。

私たちは、2017年1月20日から2021年1月20日までの、第一次トランプ政権4年間の経験を経ても、まさかトランプがここまでやるようになるとは予想しなかった。

だが、私たちは今や、そんな最低最悪のトランプにさえ馴れかけている。

だが、それこそが怖しいことなのではないだろうか?

トランプのような狂人の存在が当たり前に感じられる世の中になれば、私たちだってそれに順応するのが当たり前だと、そう考えるような人間になってしまいかねないのである。

あえて言うのだが、はたしてそうした生き方は「人間の生」と呼ぶに値するものなのだろうか?

もちろん、そうした現状への抵抗は、容易なことではない。
だが、そうした現状に適応することは、結局のところ、トランプ的な恥知らずに順応することなのではないだろうか。

たった数年で、それまでの常識が覆されていく世界において、私たちはもう一度、生きるの値する「人間らしさ」ということを考えるべきなのではないだろうか。

でないと、すべてはなし崩しになっていくしかないはずだからである。


(2026年3月15日)


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