▷ 書評:こだま『夫のちんぽが入らない』(扶桑社→講談社文庫)
いきなりで恐縮だが、私はこの作品が、本物の「実話」なのかを疑っている。

私が読んだ、扶桑社から刊行された初版単行本の帯には、
『衝撃の実話』
と書いてあるし、Wikipediaにも、
『作者の実体験に基づいた自伝作品。』
と書いてある。
しかし、その一方で、
『こだまによる日本のエッセイ作品』
『短編エッセイとして寄稿され反響を呼び、大幅な加筆修正を経て長編小説』
ともある。
言うまでもないことだが、「小説」はもとより「エッセイ」だって、フィクション作品であることはよくある。
例えば、名エッセイストとして知られる、翻訳家の岸本佐知子のエッセイなどが、その典型的なものだ。
事実そのままの部分もあるけれど、そこには「妄想したこと」や「意識的な脚色」も、渾然一体的に多々含まれている。
私は何も、それを責めたいのではない。
そういうものは「そういうものとして楽しむ」リテラシーが、広く読者に求められているにもかかわらず、現実には、そのリテラシーの無い人が少なくないからこそ、現実と虚構の見分けがつかず、詐欺被害に遭う人がいっこうに減らないという現実に、注意を促したいのだ。
よく言われるように、詐欺被害に遭う人は「自分だけは大丈夫」だと自己過信していることが多く、自分の眼前にあるリアルな事象については、「嘘」や「フィクション」だとは、あまり疑わない。
「悪意ある犯罪」に他ならない欺瞞などといったことは、どこか他人事であり、他所の話だと考えている。
そしてさらに、「自分には、両者を見分ける目がある」なんて、太平楽なことを考えているのだ。
一一だから騙される。
例えば、本書『夫のちんぽが入らない』は、単行本と文庫本を合わせて「23万部」ほど売れたそうだが、その約23万人の購読者のうち、本書を「フィクションかも知れない」と思って読んだ人は、いったいどれほどいただろうか?
一一たぶん、1000人もいないのではないか?
「なにしろ、著者も版元も『実話』だと言ってるんだから、実話なんだろう」一一と、そんなふうに、多くの読者は信じたはずだ。
また、そう信じなければ、本書の内容は、いささか極端すぎて、素直に感動できるような内容のものではない。
一一私の場合「これ、ちょっと作りすぎなんじゃないの?」と、そう疑われて、素直に感動することなど出来なかったのだが、私は「疑ってはならないもの」を疑う、超絶ひねくれ者なのだろうか?
例えば、かの「可哀想」な「頂き女子りりちゃん事件」の被害者たちなんかも、こういう自称「実話」を鵜呑みにした、「可哀想」なお人好しだったんだろうなと、私はそんなふうに思いながら、本書を読んだのである。
本書の「内容」は、次のとおり。
『同じ大学に通う自由奔放な青年と交際を始めた18歳の「私」(こだま)。初めて体を重ねようとしたある夜、事件は起きた。彼の性器が全く入らなかったのだ。その後も二人 は「入らない」一方で精神的な結びつきを強くしていき、結婚。しかし「いつか入る」という願いは叶わぬまま、「私」はさらなる悲劇の渦に飲み込まれていく……。
交際してから約20年、「入らない」女性がこれまでの自分と向き合い、ドライかつユーモア溢れる筆致で綴った“愛と堕落”の半生。“衝撃の実話”が大幅加筆修正のうえ、 完全版としてついに書籍化!
いきなりだが、夫のちんぽが入らない。本気で言っている。交際期間も含めて二十余年、この「ちんぽが入らない」問題は、私たちをじわじわと苦しめてきた。周囲の人間 に話したことはない。こんなこと軽々しく言えやしない。
何も知らない母は「結婚して何年も経つのに子供ができないのはおかしい。一度病院で診てもらいなさい。そういう夫婦は珍しくないし、恥ずかしいことじゃないんだから 」と言う。けれど、私は「ちんぽが入らないのです」と嘆く夫婦をいまだかつて見たことがない。医師は私に言うのだろうか。「ちんぽが入らない? 奥さん、よくあること ですよ」と。そんなことを相談するくらいなら、押し黙ったまま老いていきたい。子供もいらない。ちんぽが入らない私たちは、兄妹のように、あるいは植物のように、ひっそりと生きていくことを選んだ。(本文より抜粋)』
(扶桑社版単行本のAmazon紹介ページより)
読了した今となっては、上の、作品冒頭部における、
『兄妹のように、あるいは植物のように、ひっそりと生きていくことを選んだ。』
という、いかにも同情を惹ける、卓抜なレトリックに感心させられるばかりだ。
なぜなら、これによって、「下ネタ」のいかがわしさが、すっかり脱色されるからである。
本書の「成立事情」は、次のとおりだ。
『2014年5月の同人誌イベント(※ 文芸フリマ)で発売の同人誌(※ 「なし水」)に短編エッセイとして寄稿され反響を呼び、大幅な加筆修正を経て長編小説として2017年1月18日に扶桑社より刊行。』
(Wikipedia「夫のちんぽが入らない」)
私は、先日レビューを書いた、鈴木沙巴良著『文学フリマ物語 なぜ人は創作に魅せられるのか』に本書が紹介されており、そこで「文章が抜群に上手い」と褒めれているのを見て、本書に興味を持った。
本書がベストセラーになった刊行当時は、そのわかりやすく「煽情的なタイトル」にうんざりさせられて、手に取ることさえしなかったのだ。
そもそもの話で恐縮だが、そもそも日本文学の伝統的な小説形式であった「私小説」だって、ノンフィクションやドキュメンタリーではなく、基本的には「フィクション」だと考えるべきものであって、「私小説」をノンフィクションだと思って読む人は、文学にうとい人だと言えよう。
またかつては、橘外男などによって「怪奇実話」と称される「実話」を装った小説作品も書かれたし、現在流行しているホラー小説も、「実話」を装った「創作怪談」的なものが、むしろ主流となっているようだ。
つまり、人は「作り事(フィクション)だとわかっていてさえ、実話だと謳ってあれば感情移入しやすく、楽しみやすい」のだから、「実話」と「フィクション」の境界を「故意に曖昧にして売る」ようなものも、決して後を絶たない。
私は、そういうものもあって良いとは思うのだが、しかし、そういうものをナイーブに信じてしまう、リテラシーの低い人が、むしろ「多い」という現実を危惧するから、「例えば、あなたは本作を、ノンフィクションの実話(そのもの)だと思って読みましたか?」と、そう問いたいのである。

「信じること」「同情すること」は、たしかに人としての美徳である。
一一けれども「無責任な軽信」は、はたして「美徳」なのだろうか?
私はそうは思わない。
適切な「懐疑」を持てるのは、「真実」というものに対する敬意と尊重があってこそなのだと考えるからだ。
「信仰心」が尊いものだとしても、だからと言って「何を信じても良い」というわけではないのと、それは同じことなのだ。
尊いものを尊重するためには、尊いものとそうではないものを峻別する厳しい目が必要だと、私はそう考えるから、軽信を軽々に褒めたりはしないし、褒めることなどできない。
無論、私自身、本作が「実話なのかフィクションなのか」、その「真相」は知らない。
そんなことは、「著者」以外には、誰にもわからない。
だか、だからこそ疑いもする。
「担当編集者」にだって、「著者」から打ち明けられないかぎり、事の真相(本当のところ)は、わからないだろうし、編集者としては、所詮「小説」なんだから、「面白くなるんなら、多少の脚色はあってもいい」くらいのことは、考えるはずだ。
そもそも、「書かれたもの」は、「現実」そのものではあり得ないのだし、と。
そんなわけで、本作を「フィクション(創作)」だと考えても、基本的には、なんら差し支えはないだろう。
なにしろ作者の「こだま」は、「顔出し」していない匿名作家なのだから、真相など誰に確かめれば良いのか、それさえわからない。
作者「こだま」だとされる「顔を隠した女性の写真」も見かけるが、この女性が「こだま」その人だという保証など、どこにもない。
「こだま」その人に近い人なら、身代わりのなりすましで、マスコミの取材を受けることだって、編集者との打ち合わせですら、やろうと思えば可能なはずだ。
そもそも、「こだま」が女性だという、確たる保証だってないのだ。
○ ○ ○
本書を読めばわかることだが、本作で語られる「著者を思わせる語り手の内面」は、語り手に都合の良いものになっている。
つまり「自分の難点・問題点」を率直に認めているように見えながら、しかし基本的には、あまり反省してはいない。
だからこそ、似たような誤りを繰り返すのだが、反省しているかのごとき「内面」を、外に向けて語ることで、自己正当化できるし、他人の同情を買うこともできる。事実、それに成功してもいる。
本書についての、次のような「惹句」が、まさにそれだ。
『「普通」という呪いに苦しんだ女性の、いじらしいほど正直な愛と性の物語』
(本書・講談社文庫版のAmazon紹介ページより)

ここには、『正直な』とある。
また、上の講談社文庫版の紹介ページには、識者・著名人の「絶賛の声」が寄せられている。
★各界より絶賛の声(敬称略)★
●上野千鶴子(社会学者)
不器用で正直すぎる女性の、半生をかけた「生きづらさ」レポート。それにしても、愛と性が別なものだとわかってしまった時代のカップルは難義なものだ。
●おかざき真里(漫画家)
できない、それだけなのに傷つけられる。ちんぽだけじゃない、人生できないことの方が多いのに。
●小池栄子(女優)
普通の夫婦なんていない。他人から見ればきっと皆どこかおかしい。だからこそオリジナルの夫婦の形、愛の形を作り楽しむべきだ。この夫婦には素晴らしい絆があり、私は大ファンになりました!
●麒麟・川島明(芸人)
まっすぐ歩けないから回り道。でも回り道が一番の近道だったと気づく時がくる。それがくるまで歩き続ける。その歩幅を広げてくれる一冊。
●岸本佐知子(翻訳家)
痛くて、苦しくて、かっこ悪くて。でもどうしてだろう、すごく美しいのだ。この人生も、この夫婦の形も。
●今日マチ子(漫画家)
終わることのない痛みに震えながら、それでも一気に読んでしまった。少しずつ明るくなっていく空のもと、ふたりが見つけた「つながり」が現れる。
●cero・髙城晶平(ミュージシャン)
実は本編で一番好きなのは、「大仁田こそ流血すべき」のくだり。次はこの部分を歌にしたい。
●燃え殻(作家)
作者が返り血を浴びているような小説しか読みたくない。だから最近はこだまさんの作品ばかり読んでいる。
●三浦大輔(劇作家、映画監督)
読後、潔いタイトルが心に染みわたる。誠実で切実で普遍的な、後世に残る夫婦の物語の名作! 僕はそう思います。
この人たちは、基本、この小説を「実話(ノンフィクション)」だとして、褒めている。
なにしろこれだけの人たちが、本書を「実話」だと信じて褒めているのだから、たぶん間違いないだろう一一と、そうなるのは人情なのだろう。
だが、詐欺サイトにも「著名人の推薦」なるものがしばしば登場するのだから、この手のコメントが本物か偽物かを問う以前に、著者人だからといって「騙されないわけではない」「間違わないわけではない」という現実を、それぞれが銘記するべきなのではないのか。
一一メディアリテラシーなるものを、本気で求めるのならば、だ。
ちなみに、ここに推薦文を寄せている、東大教授だった社会学者の上野千鶴子も、「町長からセクハラを受けた」とする女性職員による「虚偽告発」を真に受けて、町長を、女性差別者の嘘つき呼ばわりしたあげく、のちに真相が明らかになって「謝罪した」という、「草津町虚偽告発事件」という失態も、現にあるのだ。
つまり、東大の社会学教授で、日本を代表するフェミニストである上野千鶴子だって、「女性の嘘」を見抜くことなど出来なかったのである。
ましてや、単なる「著名人」をや、という話なのだ。
○ ○ ○
本作は、すでに紹介されているとおり、「夫のちんぽが入らない」という困難な事態に懊悩した女性の内面を描いたエッセイとして同人誌に掲載され、それが「文学フリマ」でバカ売れしたというので、それに目をつけた編集者が、そのエッセイに加筆して長編小説化することを勧めた結果の作品である。
だが、そもそも、同人誌掲載のエッセイは「ネタ(フィクション)」ではなかったのかと、いったんは疑ってみるべきなのかも知れない。
ウケ狙いの軽い気持ちで書いたものが大評判になってしまい、今さらあれは「ネタでした」とは言えなくなったなんて可能性だって、ないでもないのではないか。
なぜなら、この作品は、「実話」という触れ込みだからこそ面白い(興味深い)と感じるのであって、最初から「フィクション」だと断られていたなら、面白くもおかしくもない作品だからだ。
たしかに、文章こそ素人離れして上手くはあるものの、中身としては「ゴシップ記事」と大差のない、わかりやすく扇情的な読み物でしかない。
「ちんぽが入らないって、どういうこと?」「旦那、どんなデカマラなんだよ?」と、本書のタイトルを見た大半の人が、最初に考えるのは、そうしたことなのだ。
だから、それが「実話」として売れてしまった後では、作者だって「あれはフィクションでした」とは言いにくいだろうし、ましてやそれを、大手出版社から「小説化して出版しませんか」などというおいしい話が舞い込めば、なおさら、作者も編集者も、今さら「フィクションでした」とは言えないだろう。
それでは、いかにも興醒めで、本作の価値が激減して、売れなくなるのは目に見えているからだ。
したがって、利害関係者たる作者や出版社側の説明を鵜呑みにせずに、純粋に「小説(創作物)」として読んだ場合、本作は、「物語」としては「作りすぎの詰め込みすぎ」という印象が否めないと、少なくとも私の場合は、そういう評価になった。
「これくらいの小説で、大騒ぎすることか?」としか思えない。
「夫のちんぽが入らない」というキャッチーな発端に始まって、母親から精神的虐待を受けながら、田舎町での鬱屈した日々を送った幼少期。大学に入り下宿生活を始めた結果の、のちに夫となる人との幸運な出逢いと結婚。
教師となって遭遇した学級崩壊で精神を病み、ネットで知り合った見も知らぬ男たちに体を委ねる日々。
そうした日々を乗り越えて、再度子づくりに挑戦するも、難病が原因で、それも半年ほどで挫折する…などなどが、200ページほどの本書に、詰め込まれているのだ。

実話だとすれば、波瀾万丈な、きわめて過酷な人生であり、同情されて然るべきではあるものの、しかし、ここで書かれていることは、あくまでも語り手の主観的な認識であって、側から見れば、またぜんぜん見え方も違ってくる可能性だって否めないはずだ。
例えば、どんな犯罪者だって、その「主観」からすれば「社会的な被害者」である蓋然性は否定できない。
永山則夫の『無知の涙』などが、そのわかりやすい実例なのである。
ただ、彼らの多くは、それを他者に上手に伝える能力を持たないがゆえに、同情してもらえないだけ、といったことだって、決して珍しい話ではないはずなのだ。
だから、「当人の主観」で書かれたものを、鵜呑みにしてはならない。
文章を書く者なら、私も含めて誰もが知っているとおり、書き手というのは、多かれ少なかれ、自身を正当化し、美化するものなのだ。
自己批判的なことや露悪的なことを書いていたとしても、それは多くの場合、そのことによって、かえって読者の信頼を得ることが出来るのだと、そんな「計算」が多少なりとも入っているものであり、仮にそうした自覚が無かったとしても、そのような自己正当化は、無意識にでもやってしまうものなのだ。
だから、それが「積極的な嘘(フィクション)」ではないとしても、「書かれたもの」が「現実をそのまま映したもの」だと考えるのは、ナイーブにすぎて危険なのである。
○ ○ ○
そんなわけで、本作『夫のちんぽが入らない』もまた、「100パーセントのノンフィクション」ではないというのが確かなら、「100パーセントのフィクション」でもあり得ないだろう。そこには確実に、著者の実体験が反映されているからだ。
つまり本作は、「100パーセントの完全ノンフィクション」と「100パーセントの完全フィクション」という両極の間の、どこかに位置する作品であり、その真偽の割合は「9:1」かも知らなければ「7:3」かも知れないし、また「5:5」なのかも知れない。
逆に、真偽の割合が「3:7」かも知れなければ、「1:9」である蓋然性さえも否定はできず、まして作者が「匿名」である以上、事実関係の確認検証など、容易なことではないのである。
また、たとえ本作が「100パーセントの完全フィクション」であったとしても、「小説」として優れているのであれば、それはそれで高い存在価値を有するのだが、私には、そんなふうには評価できなかった。
明らかに本作の場合は、「ノンフィクションであったならば」という「条件付き」でこそ、多くの人を驚かせ、感動させたのである。
だから、本作の「真相」は別にして、「どこまでがノンフィクションなのか?」と、いったんはそう疑ってみる慎重さが、読者には求められて然るべきだと、私は考える。
「リテラシーが必要だ」と、オウムのように繰り返していても、それだけで「リテラシー」が醸成されることなど、決してないからだ。
そんなわけで、私は多くの人に本書を薦めたい。
一一「あなたは本書を、どこまで実話だと考え、信じますか?」と。
(2026年10月28日)
○ ○ ○









コメントを残す